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ま え が き

高橋信次先生が四十八歳でこの世を去られたのが一九七六年六月二五日でした。
先生は四百六十余の特許権を有する超一流の科学者であり、又、小型コンピューターのトップメーカーの社長でもあったのです。
その先生が生前、この地上界の全人類が調和し、平和と安らぎの世界とならしめ、又、個々の人々が幸福になるにはこうしなさいと、こと細かに説いてくださいました。
「人間は偉大なる神の子であり誰もが皆、自分に嘘はいえない善なる心をもっている、偉大なる魂であり、偉大なる心こそ自分である」と説かれ、「人々は自分の偉大性を知りなさい。魂は永遠の生命であることを自覚しなさい」と、ご自身の体験を通して、お話し戴いたものです。また、聖書に記され、伝えられている事と同じく多くの奇跡を私達の目の前で示され、「これは神の子なら誰でも出来ることなのです。私の専売特許ではありません、曇りのない心をつくる事が大切です」と、私たちの人生を正しく生きることを噛んで含めるように諭されました。
また、偉大なる神の子である人々がどのような目的と使命を持ってこの地上界に生れたか、また、人生における疑問や、悩みの解き方など、こと細かに教えて下さいました。
我々の住んでいる地上界で生活するには物や金銭が必要です。その物や、金銭に対し足ることを忘れた欲望は人々の心を暗くし、寂しくさせ、争いの因ともなっています。このことは個人、家庭、団体、社会、国家間でも同じでしよう。
「富める者も、貧しい者も現在置かれている場、周囲の事象、現象は総て自分自身が神  の子として、己の心をより広く、大きく、豊かにすることを望み、魂の向上の為に自ら選んだ修業の場である」と説かれました。
また、循環の法則は総てに働いている。循環の法則は原因結果の法則であり、作用反作用の法則、原理であり、心の問題も例外ではない、勿論経済も例外ではない。
偉大なる神の子である我々人間は経済の問題、物、金銭に対してどのように考え、どのように対応すべきかを、『正法と経済』と題し、さらに『その目的と在り方』という副題をつけて、一九七三年十一月より一九七六年一月迄の間、GLA誌に連載されました。
私は当時、経済には関心がなさ過ぎた者ですが、最近世界経済の様々な問題が出てきたので、読み返して見たところ、国の問題、企業の問題、家庭のこと、個人のことと、あらゆる角度から、説かれており、我々が物質、経済についで深く考えなければならないことが多くあることに気づきました。
当然のことながら、経済は人間として生きていくためには、避けては通れない問題であり、仕事のことであり、家庭のことであり、国と国とのことであるのです。また、政治の一面は税金の使いかたであろうし、外交は調和のための相互理解に必要な、話し合いの場である筈だが、自分の利害得失のために動いているのが現状のようです。
交通、通信が発達し、地球が狭くなって来ている今日、自分のことしか考えられないようでは、狭くなった世界をさらに、自ら狭くすることになります。
損をしたい人はいないでしょうが、個人、社会、団体や、国家等総てが、相手を理解し助け合い、補い合う愛と慈悲の心を根幹として、全体的、総合的に経済を考えないと混沌とした世の中になりかねない、世情であることに気づくことでしょう。
先生はこの論文を『小論』と申されますが、私には心の内面から、全世界的観点から、経済の基本を説かれた『大論』と思います。
『正法と経済』を読んでいると、世界の推移に対してしての予言の書であり、地球人類  に対しての警告の書とも思われます。
先生のお説きになられた根本精神は仏教に、聖書に、古代神道に、また先覚の人々の説かれた、調和への道であり、他の幸せを思う慈悲と愛の清神を仕事、生活の場で活かすことが修業なのだと、いうことに気付いて戴きたいのです。
天上界のごとき地上界にするためには、「しかし」「だが」という言葉は捨て、かく在らせるためには、我々一人一人が常に、自分はいかに在るべきか、何を為すべきかを内省し、考え、自分の場で努力(精進)することが近道です。それが修業、行です。
先生は『神とは宇宙の意識そのものであり、神の欲するのは地上に出ている神の子、 人々のきれいな心です』また、「神の子の自由を束縛している国、心を忘れ、総てを物としか見ない為政者の国には飢饉、災害、天変地変がおきます。神の子としての自覚を忘れた人々の多い所も同じです、これは天からの警告です、神は気候異変、天変地変なんでも自由自在です」と申されました。
先生がこの世を去られて、十年過ぎました、先生のご指導を側近くで受けた者として、後世に遺し、伝えたく、私の座右の書とも致し度くまとめたものです。
高橋信次先生の教えを実践しようとしておられる方々、世界の調和を願う方々に読んで戴ければ幸いです。
編集のため漢字を仮名に、仮名を漢字に変えたりはしました、が内容は変えておりません。GLA誌には各章に一、二、三、四、・・・・・・とだけ記されています、目次の見出しは私が付けました。合掌

1988(昭和63年)5月1日     田口恒勇
posted by ゆき at 15:02 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

目 次

                             
一、序論

経済と人間の関係         
神と人間について              


二、人生の目的

人間のなすべきこと         
正業の意義                   
魂を豊かにする                 
相互の調和                   
奉仕の精神、心                 
電子頭脳および経済論              
ケインズ論  
   
              
三、悪性インフレ

インフレの要因                 
何故起きるか                  
資本主義自由主義経済(多国籍企業)       
社会主義経済と資源問題             
資源ナショナリズム              
経済成長と公害                


四、流通の問題

流通経費              
卸売り機構                   


五、近代社会の思想的背景と現代経済社会の仕組み

心の偉大性と自由性               
真の自由人(真の悟り)           
自由思想と科学、技術の発展           
愛こそ総てである                


六、労使の問題

インフレ、デフレの原因は欲望にある       
経済の根本原理にしたがえ            
一人一人が経営者で従業員            


七、結論

責任と自覚ある共同社会             
相互扶助、家庭の愛を社会に広めよ       
釈迦、モーゼ、イエスの教えの原点を求めよ   
正法を生活に生かす         

以上
posted by ゆき at 15:01 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

1973年11月

本稿は、さまざまに変化し、目的を見失いつつある現代経済の姿にメスを加えながら、正法に照らした経済の在り方、経済とは一体何であるのか、人間は経済の奉仕者なのか、それとも経済が人間の生活を豊かにするためにあるのか、未来社会の展望などにわたって論を進めてみたいと思う。
まず経済の概念について考えてみよう。
辞書によると、経済とは金を儲けたり、使ったりする各種の行為又は状態をいう、としている。
経済学は、人間の欲望充足のための手段として経済を見、ここに焦点を合わせながら、学問としての論理を展開する。
現実の経済行為は、辞書や経済学のとらえ方を裏書きするかのように、激しく、冷酷なまでに動いている。
それこそ、政治も、教育も、科学も、労働も、文化も、現実の経済の動きの前には手も足も出せず、これに翻弄されながらも、かろうじて命脈を保っているといえるようだ。
何をするのも金、生きるも金、いうなれば経済の御厄介にならぬものとてないのが現実であろう。
このために、私達人間は経済の奴隷となって、経済の奉仕者になり下がってしまった。物や金は人間の生活をより便利に、豊かにするためにあるのに、人々はこれを求めて右往左往せざるを得なくなっている。
親子といえども銭金は他人だし、遺産相続をめぐる兄弟姉妹の争いは、財産が大きいほど激しく揺れ動く。殺人や裁判沙汰は、新聞紙面を毎日のように賑わしている。
企業には停年制が設けられ、人生の大半を企業に奉仕しても、その時期が至れば辞めて行かねばならない。
利益を生むためには、物を独占し値上がりを待つ。価格維持には惜しげもなく廃棄処分にする。
福利が先か、利益が主目的か。利潤追及を目的とした今日の企業組織は、人間主体の経済を地平線の彼方に追いやってしまった。
今日の企業体は、封建社会の遺物であった家の組織に似ている。
徳川幕府が築いた家の組織は、権力維持と謀反を防ぐに役立ったが、人間不在の形式主義に流れ、人びとは家に忠誠を誓うおかしな組織が出来上がってしまった。城主といえども自由にならず、家臣もまた主君のためより、家の存続に喜んで死んでいった。家を中心のお家騒動は、人間のみにくい業をさらけ出し、小さな人間をつくっていった。
家の組織を強固にした大きな理由は経済にあった。つまり、家を存続させることによって、家臣一同の生活が維持されて来たのであった。跡継ぎがなく、あるいは謀反の疑いが出たりすると、家は断絶され、家臣は四散の憂目に会った。だから家臣は、家の組織、家の維持のために、喜んで奉仕した。
封建社会より進歩した筈の今日の文明社会だが、その中身を覗くと前時代の組織と少しも変わらないことに気付くだろう。ちがった点は、切り捨て御免や士農工商のはっきりした区画が薄らいだにすぎない。が、しかしついこの間までは、殺すも生かすも経営者の胸一つであり、格式と階級意識は、まだまだ消えてなくならない。
ともかくこのように、経済と人間の関係というものは、昔も今もあまり変らないし、人びとは経済の奴隷となってその一生を過ごしてしまう。
ここでもう一度、人間とは何かを問い、あらためてその価値と目的を振りかえって見たいとおもう。
人間の目的については、拙書(心の原点など)や本誌(GLA)を通して述べてきたがそれは神の意思である調和、全なる心をこの地上界に具象化して行くにあるのである。
私達の好き嫌いの感情に拘らず、人間はそうした約束の下に生れて来、その約束を果たさなければ、その分量だけ苦悩を味わうように出来ている。
偉大なる神は、実在のあの世と仮象のこの世を創られると同時に、人間をつくられた。そして中道という神理の中に身をかくされた。
私達人間がひと目神の姿を拝したいと願っても、それは不可能になった。
しかし私達の心は、常に神の意識に直結し、それから離れることは出来ない。神は人間に神の心を与え、調和という目的に向わしめることをしたからである。
他人にはウソはいえても、己の心には嘘はいえないという厳粛なる事実。また他を愛する心、哀れみの心。
通常こうした心を良心といっているが、その良心はどんな人にも植え付けられている。  
どんな残忍な悪人でも、一人になった時、良心の呵責(かしゃく)に悩むものだ。
私達の目に映ずる大宇宙は、とてつも無く大きい、その大きい大宇宙は神の意思にもとづいて無限の空間にひろがっている。
天体にきらめく無数の星々に、神の子の人間が住むこともなく、それらの星々は単に空間の一点にとどまっているとすれば、大宇宙は生命のない塵の集団にすぎなくなるであろう。大宇宙の存在と神秘を感ずるものは、ほかならぬ人間だけであるからだ。
宇宙は呼吸し、人間もまた呼吸して生きている。
大宇宙は膨張、収縮を繰り返しながら、人類の調和を待っている。すなわちこの大宇宙には人類の住める惑星は無数に転がっており、人類の降下を待っている。
地球以外の他の天体には、その天体に適応した人類が住んでおり、それらの人類は地球人類より優れた人達もおれば、劣った者達もいる。
しかし地球人類を待つ天体は、こうした既存の人類が存在する惑星ではなく、まったく新しい新天地の天体である。もちろん他の惑星に住む人びとも地球人類と同じように、新天地を求めて移住している。
このようにして、人類の住める惑星が一つ一つ増えて行き、そうすることによって大宇宙そのものも拡大され、調和の輪を広げて行くのである。
なぜ、こうするのかと人は問うであろうが・・・・・・。
その前に、人間はなぜ退歩をのぞまず、向上を求めて止まないのだろうか、ということを考えて欲しい。
神の意思は無限の向上と調和を求めているのだ。
その具体的な表れが人間なのだ。
神は意思を持たれ、人間はそれを行使する者なのだ。
そうして、魂の永遠の向上を希求して行く者が人間なのである。
地上界の生活行為は、この魂の向上を図るための手段である。
生活が目的となり、魂の存在をないがしろにした時に、人間は苦痛を味わうようにできている。
迷い、悩み、さまざまな事件を引き起こして行く。
戦争、災害、病気、孤独、死、これらに人びとは引き込まれ、人間の本性をいよいよ失っていくのである。
人類は目を開かねばならない。経済の奴隷となり、魂を忘れてはならないのだ。
経済は、魂向上の手段であり、足場であることを、今こそ認識しなければならないのである。
posted by ゆき at 15:00 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

1973年12月

神と人間について、もう少し触れてみよう。
よく人はこういう疑問なり質問をしてくる。すなわち神は何故に存在する、大宇宙や人間を創造されたことは分らぬでもない。だが、神はどうしてあるのだろう。もし神があるとすれば神のまたその上の神があるような気がしてならない。今日の科学は、なぜについては何一つ答えないし、答えることが出来ない。したがって人間もまた神の存在に答えることが出来ないように思われるが、この点はどうなのだろうというわけである。
私達人間の思考は五感の影響をうけている。すなわち物質的であり、物理的に出来ているといえよう。宇宙船が地球から離れ、地球の引力圏から脱して、人間が宇宙船内を自由に遊泳出来ても、依然として私達の思考方法は物質的物理的なのだ。
神がなぜ存在するかの問いには、それ自体の発想と、こうした思考の仕方では導き出せないのだ。
物理的思考とはラッキョウの皮をむくようなものだからである。一枚一枚むいてゆくうちに全部なくなって、サテ一体、ラッキョウの本体はどこにあるのか、本体がないのにどうしてラッキョウが出来ているのか、ということになるだろう。
人間を創った神があるとすれば、神を創った神があってもいいではないか、神の神はどうしてないのかというのは、ラッキョウの思考と全く同じといっていいだろう。
三次元の思考はどうしても鶏論議になってしまうのだ。卵が先か、鶏が先か、いったいどちらが先に生まれ鶏が出来たか・・・・・・。
とはいっても、今日の科学は宇宙船を飛ばし、原子エネルギーを発見した。コンピューターは人間の頭脳に劣らぬ複雑な計算を可能にし、科学の行手に不可能はないような気がしてくる。しかし永久運動が容易に発見できないように、三次元的思考ではなぜに対する答えは出てこないのだ。
ここに私達の迷いがあり、物質科学の限界がある。
虫一匹、卵一つも創作出来ない私達である。
神の存在云々の前に、私達はもっと自然の大なる英智に対して謙虚になる必要があるだろう。
森羅万象の生命の営みをみると、そこには整然とした侵し難い秩序があり、その秩序によって万物は生かされている。
神はなぜ存在するかの問いは間違いなのだ。
何故ではなく、神は在るべくして在って、私達はその中で生の営みを続けている。
人間そのものについても人間は何故存在するかの問いに誰一人として答えることは出来ないだろう。人間もまた在るべくしてこの地上に立っているからである。
神の問題は心の問題につながる。
自分の心が把めない者にどうして神の存在が理解出来よう。
にも拘わらず人間は神の存在について答えを求めようとする。傲慢というほかはない。  
神がなぜあるかを知りたいなら、まず自分の心を知ることだ。自分の心を知ったときに神の偉大な英知、慈悲、そして愛の営みを悟ることが出来よう。
神を単なる物として、物質的なとらえ方をしようとしても理解できるものではない。
動、植、鉱の物質は神の慈悲の表れであるが、物質としてそれをみる限りは私達の心に訴えてくるものは非常に小さいといえる。なぜなら、私達のこうした問いかけに対して、神は何一つとして語ってはくれないからだ。
しかし、私達が己の心の神性にめざめ、心がひらいた時は、動、植、鉱のさまざまな働きが、何を意味し、何を為しつつあるかを知ることが出来よう。
この時私達は、万物という物質が相互に関係し合い、助け合い、互いに他を生かしていることを知ることができる。
すなわち、神の偉大な営みを悟ることができるのである。
神があるとすれば、その上の神があろうという考えは、五感六根を中心としたものの見方であり、これでは何時までたっても神の英知にふれることはない。
神の英知に触れ、人間の存在を認識したいと思うなら、まず倣慢の心を捨て、自然の在りのままの姿を静かにながめ、自身の心をひらくべく努めることだ。
神は自ら求める者にその扉を開く。
頭を空ッポにしたときに光を与えてくれる。
与えられた仕事に感謝し、奉仕の心を抱く者に幸せと導きとをあたえてくれよう。
神の道は針の穴より小さいということは、己の心をみつめることの少ない人びとが余りにも多いからなのである。
神は何時でもその門戸をひらいている。
いつどこにいても慈悲と愛の手を差しのべてくれる。
神はなぜ存在するのかという疑問は、心を外に向けたときの問いかけなのだ。
内省とふだんの努力を惜しまぬ者は、謙虚と勇気と情熱と、そして常に忍辱とを忘れないだろう。
かくて、神と人間と全宇宙の在り方が己の心を通して、教えられ、そして悟ることが出来るだろう。
いたずらに迷妄の淵にたたずみ、自分を失ってはならない。
人間は神の子である。
神の意志を受け継いだ行為者なのだ。
自己保存と我欲におぼれるときは、神は人間を正す意味で反省を促そう。
自己保存と我欲が地上を蔽えば、神は、陸地を海に、海を陸地に変えてしまうだろう。   
人類はこうした経験を幾度となく重ねて来た。だから大地が揺れると、人間は重心を失ない恐怖心は頂点に達する。
天変地変の災害は安穏に暮らす人びとの想像を越えた大きさで何時もやってくるのだ。
私達の記憶は、それを訴え、二度と再びこのことなきよう誓いを立て、地上に生を得たのだが、環境になれ、生活に押し流されてくると、このことを忘れ、目前の利害におぼれてしまう。
私達の目的はこの地上を仏国土・ュートピアにすることなのだ。
仏国土とは調和ある世界のことだ。
完全調和はこの地上界が物質界であるが故にこれでよいという限界はない。百年前まで人間が空を飛ぶことは夢であった。しかしその夢が今では何んの雑作も無く飛ぶことが出来、月まで行ける時代となった。現代の夢は、火星に移り、そして他の惑星へと発展し、ひろがって行こう。
調和のひろがりと内容の豊かさについても、それと同じである。これで良い、という限度がないのだ。進めば進むほど、よりたしかなもの、より充実したもの、より内面的なものへと進み、調和の質と量を高めて行くことになる。
そうして私達は限りない調和を求めて、魂の進化を図っているのである。
調和というと、外的な、物質的な、健康的な、明るい社会を誰しも想定する。もちろんその通りにちがいない。
しかしそうした外的な調和はどこから生まれるかといえば、まずもって、各人の魂の進化、魂の調和にあるのである。
魂の調和がなければ豊かな環境すら作り得ないではないか。
このことは現代の物質文明をひと目見ればハッキリしよう。
心不在の文明が邪悪と不信とに満ち、争いと苦悩の多い社会であることは誰の目からみても理解できようからである。
posted by ゆき at 14:59 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

1974年1月

人間のこの地上界での目的は何か、生活の目的は何か。
それはすでに述べたように、魂の永遠の向上を求めて行くことである。
私達人間が神の意識から分かれ、単独の魂を与えられたその時からはじまっている。
このことは、好むと好まざるとにかかわらず、私達はそうした目的を持って、人間として生まれて来たのである。
これは観念や、形而上的なそれから考えられた命題ではない。
観念や形而上の事柄は主観的であり、これを認識しようとすると、人それぞれの体験によるところに左右されよう。しかし、ここでいう人間の目的というものは、人が慈悲と愛の調和を求め、正しい生活を実践していくならば誰でもが認識し得る自然の条理なのである。
私達は外的な感覚的な生活に追われ、自分の心をふりかえる余裕を持たぬので、認識出来ないものについては、つい否定してしまう。そのために、真実なものと、そうでないものの判断がつかず、一生を食うこと(一切の欲望を含めて)に費やし、そうして、極めて外的な比較の観念の中におぼれ、自分を見失って行く。
食うことも大事だが、しかし、空の真実を知ることは、もっと大事なことなのだ。
空の世界を知ると、地上での食うことの摂理も理解されてくる。
食うことは、私達人間の肉体維持のための神が与えた本能であり、そうしてそれは自分自身を含めて、種族保存と調和の世界を築く基礎的要件であるのだ。
したがって、食うことは人生のすべてではない。食うことは、魂の向上という己の調和と、全体の調和を図るためにあるのである。
人はどんなに生きても、大低は百才までである。百才という才月は長いようだが、すぎてみると泡のようにはかなく短い。その短い人生に、人はどうして足ることを知ることを知らぬ欲望、名誉、安逸等を求めようとするのだろう。
社会の混乱は、人びとがこうした外的な欲望に心を向け、それに執着を持ってしまったためにおこってくる。
人はどんなに頑張っても、裸で生れ、裸で死ぬのであり、食う為に人をおしのけ、威張ったところで、そこに何があるというのだろう。
金が貯まり、財をうづ高く築いたとしても三度の食事を五度や十度にするわけにはゆくまい。遊びや娯楽にしても過ぎてくると、孤独と不安が襲ってきて、体のあちこちに支障がおきてこよう。
いつも元気に空を飛ぶ小鳥のさえずりをきくと、人間の欲の深さにあらためておどろきを覚える。彼等の一生はその日暮しである。一日一生の彼等は、財も、金も貯えようともしない。それでいていつも元気で、飢えを知らない。神は、彼等が飢えないように、彼等の腹を満たす食べ物は何時も用意してくれている。もし彼等の仲間が、食べ物を独り占めし、地上のどこかにかくしたとすれば、他の小鳥達は飢えに泣くことだろう。しかし彼等は、一羽たりともそのような我侭や欲望を発展させることはしないのだ。だから、彼等の仲間は、その日暮しだがいつも元気で、空を駈けめぐっていられる。
小鳥達のさえずりを耳にすると、人間社会の愚行が影絵のように浮び、小鳥達に教えられる。
人間は、自由と、創造と、この地上を調和する能力を保有している。そうして、そうした能力を通して、その魂を拡大し、神の心と一つになることに向かって進んでいる。
つまり、神の偉大にして無限の広さを持つ意識から分かれた個々の人間の魂は、転生輪廻を通して、神と同等の無限の意識にまで発展させることなのである。
個々の魂が神の広さにまで発展させることによって、眼に見える大宇宙も、無限の発展(質的に)が可能となるのである。
私達はそうした約束の下に生れ、個の魂を持ったのである。
この目的は、あの世、この世を通して変ることがない。
したがって地上での私達の為すべきことは、この目的に合致した、それでなくてはならないだろう。
小鳥達が他を侵すことなく、全体の調和を維持できるのも、彼等もまた彼等の世界の中で、そうした合目的の下に生かされているからだ。
人間が小鳥達とちがうことは、前述のように、本来の自由と、創造と、地上全体の調和という役割が与えられ、生かされ、生きている神の意識を保有した魂であるという点だ。 
小鳥には、小鳥達だけの世界しかない。彼等には水中の魚や人間社会にまで調和を促す能力は与えられていない。しかし、人間は、小鳥を含めて、全体の調和を進めていく神の代行者、神の意思を受け継ぐ行為者なのだ。
だが、その人間が小鳥以下になり下がっているというのが現実ではないだろうか。
さて、人間の目的がそうだとすれば、私達はどう生きるべきか、どう為していくことが神の意思に合致するかである。
私達の生活を支える仕事についても、その仕事の目的が食うためにのみあるとすれば、人間は小鳥以下になってしまうだろう。
世の混乱が食うことを土台にして、人のことより自分のこと、他人が苦しんでも自分が
困らなければ痛くもかゆくもない感覚が、そうしたものを生み出している、といえるだろう。
人間社会が小鳥以下になるのは、自由と創造の能力が与えられているので、悪にも善にも通じてしまうからなのだ。
人のことより自分のことというものの考え方は、小鳥達とはちがった能力があるから生じてくる。だから人間は人間同士で争いをはじめてしまう。
小鳥達同士で殺したり、殺されたりするだろうか。しない筈だ。他を侵さないので、自分も侵されない。つまり、彼等は、自分の分を守って生活しているので、安定した共存を可能にしている。
私達人間も、まずこのルールを守ることだろう。
財を独り占めし、自分さえよければ良いという考えが、混乱の元凶を為している。
もっとも現在の経済社会は、そうした混乱や個人の欲望、自己主張の上に成り立っているので、これを否定すると、現代経済社会の歯車が狂ってしまうことになるが、しかし、本当はそうはならないのだ。
このことはまた後で述べるが、まず私達は、人間のこの地上での目的をしっかりと自覚し、仕事の意義、生活の目的、人間の本質(このことは既に述べた)を胸に収めることが必要だろう。
八正道の中に、正業という規範がある。
正業とは、正しく仕事をすることをいう。
私達の仕事は生活と直結し、仕事と生活というものを切り離して考える事が出来ない。したがって正業の在り方は、そのまま、生活の在り方にもつながって来よう。
また、今日の経済社会が利潤追及のシステムの上に組み立てられ、神の子である人間の目的からすると、これはまったくの反対行動であり、そうした意味からも、正業の在り方は、私達人間の一日における生活活動全体を規制するということにもなってくるだろう。
posted by ゆき at 14:59 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

1974年2月

正業には三つの目的が秘められている。

一、己の魂を豊かにする

二、調和

三、奉仕

の三つである。
まず、一について説明しよう。
私達は次元の異なるあの世からこの世に出生してくるときには、一人も例外もなく、こんどは医者になって病に苦しむ人びとを救ってこよう、あるいは商人となってさまざまな財を人びとに分け与えてこようといって出生する。
出生の自的は人生の経験を積むためであるからだ。
人生におけるさまざまな経験を、職業を通して、仕事を通して積んでいくのである。
経験は魂の輪を広げ、心を豊かにして行くものである。
私達は経験のないものを理解することは困難である。
善の素晴らしさ、悪の醜さというものは自分に経験がないと本当に知ることは出来ない。
人殺しや犯罪者の心理状態は、これらを経験しないと理解できないかというと、本当は理解出来ないものなのだ。
自分がその局面に立たされ、追われる身となって、世間をはばかった生活をする、ことによって、はじめて悪の愚かしさ、悲しさ、醜さを知ることが出来よう。
人間はもともと集団の中で互いに手を取り合って生活して行くように仕組まれている。世間をせまくした孤独の生活というものには人間は堪えられないのである。
宗教や哲学に興味を抱く人々の魂は、たいていはこうした人生の明暗の生活をくぐり抜
けて来た人々が多いといえよう。
いうなれば、魂の経験が多く、さまざまな仕事を通して現在ここに立っているからである。もちろんその経験というものは、何も今生のそれをいうのではない。長い転生輪廻の過程において、そうした経験が、ものの真実に近づき、人間に対する理解に度合いを深め善に喜びを見出すことが出来るようになるのである。
私達の身近かな五十年、七十年の人生についても、そのことが言えるのではないだろうか。
人生経験の乏しい小学校一年生に、四十代、五十代、あるいは老人達の悩みを解決する能力を求めようとしても、それはもともと無理なことではないたろうか。
少なくとも、これらの人達を納得させるには、納得させるだけの説得力と、にじみ出た経験が必要になるだろう。
そうした能力というものは、やはりいろいろなことを学び、さまざまな苦楽の経験がそうした能力を引き出して行くものであろう。
魂のキャパシティ(容量)はこのように、さまざまな職業、仕事を通して、はじめて、その豊かさなり、広がりを示して行くものであり、やがてその魂は宇宙大にひろがり、神の心に触れ合うように進んでいくものである。
人間の出発が神の意識から分かれ、そうして、神に帰って行くのは、人間に与えられた天命なのだ。目先きの安住を求めて、そこに何時までもとどまることは許されない。
それは各人の魂が今世と訣別し、あの世に帰った時にはっきりと理解されよう。
勿論、ある次元にとどまる魂についてはそうした人間の天命を知ることがなく、地上界に執着し、魂の前進を遅らせる者も数多く存在するが、しかし、それでもやがてはそれを知り、再び、地上界に出生し修行し、悟って行くものである。
こうみてくると、この地上界における職業仕事というものは、それ自体に目的があるというより、各人の魂の経験を積むためのよきパートナーであり、手段ということになるだろう。
職業に貴賎はないし、職業によって人格まで評価することはこれまた全く愚かなことといわねばならない。
前生は名もなき一介の市井人であっても、今世は歌手や俳優となって世界的に有名になった者もおれば、その反対の者もいる。
ペテロという人はイエスの弟子として有名である。
そのペテロは二千年前は貧しい一介の漁夫にしかすぎなかった。
イエスの意志をついだが、伝道には学問の貧しさから随分と苦労したようである。
そこでペテロは、こんどは地上に出生した折りは学問をみっちりと学び、事物の理解をふかめたいと学問の道にはいり、東大の総長までになった。
イエス伝を遺して他界した矢内原忠雄という人がかってのペテロである。
こうした、例は非常に多いし、前生の仕事を今世でも為しつつある人もいるが、大抵はちがった職業に就き、その仕事を通して、人生体験を深めている。
私達の一日の仕事の量というものはほんのささいなものに過ぎないだろう。
その意味では五十年、七十年の短かさを痛感する。
仕事や職業に、人生の全部を賭けようとすれば、大抵は悔いだけが残ることになるだろう。
しかし仕事を通して、人生に目的を見出し、人間としての価値を希求する者には満足と喜びが与えられるだろう。
価値ある行為というものは、より多くの人々に、どれ程の喜びと人生に生き甲斐を与えて来たかにかかっている。
仕事をより多くすることは社会にたいして大きな貢献をしたことになるが、神の眼から見た場合は、仕事の量よりもその質のほうがずっと重要視されるのである。
秀吉という男は、天下を平定したが、しかし、それは極めて表面的なことであって、彼の死後は再び戦乱が起こり、人心は再び動揺した。
社会を安定し、生活を豊かにすることは大事なことだが、それを裏づける心の安定がもっと大切なことを、歴史が教えている。
物質のみに走った栄誉栄華は砂上に建てた楼閣のように長くは続かないし、人心を真に安定させることは出来ない。
人心の安定と生活に喜びを与えるためには、神の心に適った物と心のバランスのとれた中道以外にはないのである。
中道の根底にあるものは心である。神の意識である。
その意識を根底にして、物と人心とのバランスが図られることが地上に住む者の在り方でなければならないのである。
それにはまず、なんと言っても人間の目的が調和にあり、仕事というものは各人の魂のキヤパシティを広げていくものであるということを理解する必要があるだろう。
仕事の量より質が重要だということは、この地上界の人類の歴史が五官六根に左右され勝ちであり、五官六根の苦闘の歴史であったからである。
否、この事はこれからもまだ続いて行くであろう。目先きの利に追われ、食うに困れば力づくでも奪い取るというのが地上界の意識である。
アラブの石油問題が米・ソの利害が一致し、戦争より話し合いが自国の利益になると、米・ソが判断すれば戦争にまでは発展しないのである。
すべてが物質的な利害によって動いている。
利害がこわれれば戦うしかないのが地上界を蔽っている人類の考え方だ。これでは物心両面の調和ある社会は成就できない。
そこで、物に走っている人々の心が、魂の転生を知り、永遠の生命体である己のいのちを理解するよう、神は作用、反作用という法を通して教えている。しかしそうした中にあって、心に灯をかかげた人々にたいしては慈悲の光を与え続けているのである。
こういうことで、まず私達は、職業や仕事そのものに正業の意義があるというよりも、正業の第一の目的は、そうした仕事を通して己の魂をひらき、経験をより豊かにして行くことなのである。
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1974年3月

前号で述べたように正業の第一の目的は己の魂を豊かにするためにあった。
それは食うためではなく、生活を通して『空』の実在を認識し、正業の第二の目的である人々との相互の調和に役立つことであるわけである。
調和の意識――めざめは、『空』の真実を理解し、あるいは自覚することによって、よ  り促進されてこよう。
調和とは何か、それは私達の地上での生活を真にエンジョイするものでなければなるまい。仏国土、ユートピアの社会は、調和された社会である。個の意識は全体の意識に結びついた社会でもある。
私達の自然的生活環境は、すべて神の慈悲によって、相互に生活が成り立つように仕組まれている。太陽の熱、光のエネルギーによる生物の成育、動、植、鉱の相互依存の関係というものは、神の慈悲によって生じた調和された関係なのだ。
もし私達の周囲に、植物が一つもなく、荒漠たる砂漠のみとしたら、私達の、つつがない生存は許されないであろう。植物は私達に食べ物を与え、酸素を供給し、色彩に変化を与えて、生活に喜びとゆとりをもたらしている。
鉱物の普遍的価値については論をまつまい。私達が立っている大地、水、その他必要な供給物資は、すべて天然の鉱物資源から供給されている。
自然的環境というものはこのように、私達の生活に必要なものを与えている。
しかし、一方において、私達人間も、植物、鉱物にたいして、彼等が成育できる環境や価値を生みだしている。
植物の生育には私達が吐き出す炭酸ガスが欠かせない。また私達の排せつ物は植物の肥料になっている。今日では、農耕肥料は化学化されて、私達の排せつ物は末利用資源として処理されているが、しかし、こうした状態が私達の人体に今後どのような影響を与えるか、やがて体質の変化や遺伝子としての問題を投げてくるのではあるまいか。
鉱物がそのまま大地に眠り、未利用のまま放置されていてはその価値は半減されてしまう。人間や動物の生活に生かされるだろうか。利用されて、はじめて鉱物資源としての生命がよみがえってくるといえよう。
問題は、こうした資源が人間の恣意にもとずいて乱獲され、鉱物資源相互のバランス、循環の作用が無視されてくると、地盤沈下や海水汚染、空気の汚染にもつながり、人間の生活それ自体に大きな問題を与えてくる。このことについては後述する現代経済社会の中で述べてゆきたいと思うが、ともかく、私達人間と自然の環境というものは、こうした相互の作用によって調和されているのだ。
すなわち、たがいに補ない合い、助け合って、その生存を許し合っているのである。
正業の目的である私達人間相互の関係も、大自然が教えている調和ある生活が、正業の第二の目的でなければならない。
現代社会は、百年前、千年前のそれとは異なり、専門化され、分業化されて、単独では生きられないようになっている。
もともと人間は集団の中で生活し、集団から外れて、勝手気侭に生きられるようには出来ていない。
このことは独り人間のみではなく、各種の動物も集団生活の中でその生存が許され、植物も鉱物もこの点は変わらない。
石炭や石油、金、銀、銅などの鉱物資源は決まってある一定の場所に塊まって眠っている。だからその資源を堀りつくしてしまうと、他の塊まった場所を探し求めなければならない。
集団生活は自然の摂理だからである。
人類創生のその出発も、旧約聖書にある通り、アダム(男)とエバ(女)の複数からはじまっている。
このように私達は複数の中で、集団で生活することによってのみ、子孫を残し、歴史がつづられるのである。
ロビンソンクルーソーのように、単独の生活を望んだり、あるいは風流人をよそおい、自己陶酔におちいるのも、またヒッピーに人生の生甲斐をもとめることも、何れも調和という自然の摂理からすると離れることになるし、これでは人類は死滅するほかはないのである。
ことに現代は、分業化が進み、誰も彼も自給自足の生活が望めなくなって来ている。これは人類の増加につれて、経済システムが合理化され、生活内容が向上されて来た結果にほかならない。
経済生活の原則でありそして、よりゆとりある文化生活、精神生活を求めるために私達は最少の費用で最大の効果をあげる努力はこれからも続けられるであろうし、この原則は、いかなる社会にあっても変わることはないだろう。
こうみてくると、私達は自分の生存を保つためにも、仕事を通して、他を生かしながら生きて行かねばならない。
職業に就き、仕事をして行くことは人間として当然の義務であり、責任であろう。
さまざまな職業に就き、その道に励むことは、自分を生かし、他を生かすことにほかならない。
そうしてこうした行為そのものは、全体を生かす調和の基礎となるのである。
すなわち職業に就き、仕事を為して行く事は、自然の摂理である助け合い、補い合い、許し合う愛の行為につながる。
男女の和合を愛というのは、たがいに足りないものを補い合い、助け合うことを意味しているからであり、仕事を通しての愛の行為とは、その仕事に自分の能力を出し切り、他を生かすことなのである。
調和といい、愛という言葉は、極めて抽象的な概念として、これまでは把み難いものとうけとられてきたようだが、大自然が示す摂理を紐解いて行くと、調和も愛もその真意は誰でも理解が出来、行為の上に表わして行くことができるものである。
イエスが愛を説いた。愛を説くには説くだけの理由があった。その重要な理由としてはイスラエルを中心とした中近東地区は当時も不毛の地であり、生活が苦しかった。その貧しい生活を互いに分け合い、生きて行くには、愛という助け合う心と行為が必要だった。人間として、心を豊かに、広い心をつちかって行くには、たがいにはげまし合い、許し合う心の触れ合いがどれほど、大事であり、それがまた神の心につながり、自然の摂理に合致した生き方でもあった。
愛の行為は私達地上における光なのである。生きる道標なのだ。
仕事も愛の行為の表われでなくてはならない。
ところが現実はどうであろうか。私達の経済生活は欲望を中心として動いている。自分さえよければ他はどうでもという自己保存が愛の心を小さくさせ、エゴが人間社会を包んでいる。
労使の争いにしても、それぞれの立場で、どうして、こうも主張が変わってくるのかと思われるほどちがってくる。
ひと頃組合活動は政治的色彩がどんな小企業にも強く働いたようだ。最近ではこれが政府関係機関企業に集中されてきたようである。年々戦術も変わり、巧妙になってきているが、その目的が経済目的か政治目的かによって、争議の内容も大分ちがってこよう。
どちらに比重がかかろうとも、争いによる平和は望めないものだし、組合活動が労働者の生活向上が目的なら、まずもって使用者側の理解を求めることが必要だろう。労使の争いは、使用者側にも責任があるし、使用者のエゴに大きな原因があろう。
アメリカで自動車王となったフォードは、車の販路を広げるために、自社の労働者に思い切った高給を支払った。三カ月の給料で自社製の車一台を買えるようにしたのである。当時としては破天荒なやり方であった。ところが、これによってフォード車の需要はグングン伸び、またたくまにアメリカ市場の八割を占めてしまった。
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1974年4月

フォードの経営理念はどこにあったかというと、利潤をあげることより奉仕にあった。独占より平等を求め、金持ちの独占物であった自動車を大衆に分け与えることを念願とした。
当時は、自動車は金持ちでなければ買えないし、乗ることも出来なかった。金持ちだけを相手にしても会社は十分経営出来た。しかし、フォードはそれをしなかった。
フォードは晩年、自動車王となっても奢る心を持たず、自ら薪を割り、靴を磨いた。自分の身の回りことで自分で出来ることは人任せにすることをしなかった。
一九○九年、わずか一万台の生産台数であったものが、一九一四年には二十五万台に達し、アメリカの自動車市場の過半を占めるに至った。
私達は単独では生きてはいけない。動物も鉱物も、集団の中で互いに助け合いながら、それぞれの持ち場を守り、その持ち物を十全にはたすことによってのみ、全体に寄与することが出来る。全体に寄与することは、とりも直さず、自分自身をも寄与してくるのである。
正法は私達に何を教えているか、それは生活の正しい循環であり、正しい循環は、一人一人が奉仕の心を持って、与えられた持場を守り、全体を生かすことにある。自分さえよければよい、生きているのは自分だけと思うようになると、私達の生活の歯車は自分を苦しめ、他をも苦しめることになる。
八正道の正業の第一の目的は自分の魂の輪を広げていくことであり、第二に全体の生活を豊かにすることであり、第三に、奉仕の精神につながることでなければならない。
ここでフォードの例が出たので、マルクスについて少し触れてみることにする。
マルクス経済学は、今日、世界の国々を二分する程の影響力を持ち、人類に緊張と混乱を及ぼして来ている。彼の目的は財の公平な分配と争いのない社会の平和にあったようだが、経済法則は人間の意思から独立して存在するとして、弁証法的唯物論と史的唯物論を展開する。
マルクスによる資本主義の矛盾は生産の社会性にもかかわらず、所有の私的性格であって、このため、恐慌や失業、ブルジョアジーとプロレタリアートの階級的対立が必然的に現れるとする。
国家を階級国家と定義したのはマルクス・エンゲルスであり、それによる基本的生産手段を所有する階級が、同時に政治的に支配する階級であるから、国家機関はこの階級のために活動することになる。奴隷制国家は奴隷所有者を支配階級とする。同じく封建社会は土地所有者が支配し、資本主義社会は資本を所有する者がそれを所有しないものを支配する、というわけである。たしかに、マルクスが指摘するように、歴史の流れを一瞥するとこのようなとらえ方が出来てこよう。
さて、マルクスは一八一八年から八三年の間、エンゲルスを友に持ち世にいうマルクス資本論を書きあけた。彼はドイツに生れ、ドイツで育った。彼の目に映ったものは、その日暮しの労働者であり、資本家は国家を動かし、労働者は彼等の奴隷のように見えたのである。共産党宣言をした一八四八年の産業界は、電気の利用はまだ初歩的な段階であり、エンジンは蒸気機関に頼っていた。今日のような流れ作業による大量生産方式というものは全然なかった。過少需要で経済は成長することが出来ず、このため労働者は生存ラインすれすれの賃金しか与えられなかった。経済の仕組みも幼稚であったし、好況と不況が大きく揺れ動いた時代でもあったので、彼のいう産業予備軍(失業者)が巷に常にたむろしていた。
そこで彼はこう推論を下した。生産力が発展すればするほど労働者は貧しくなる。至るところにストライキが起こり、資本家と労働者が争い、やがて資本主義から社会主義の必然の経過を辿ってゆくだろうと。
彼はドイツ人であるから、彼の理論はまず母国ドイツに現実になって現われ、適用されるであろうと見たようである。ところが彼が生前中には彼の理論は多くの人びとに知られたものの、母国ドイツはこれを受け入れないばかりか、彼の考えとはちがった方向で発展して行った。そればかりか意外にも彼が物故した後、彼が全く夢想だにしていなかったロシヤに突如として革命が起こり、彼の理論をレーニンが受け継いだのであった。
当時のロシヤは帝政国家であり、ヨーロッパでも、もっとも遅れた農業国家であった。人口の約九割りは農民であり、しかも帝政ロシヤは日本と戦争をし、バルチック艦隊の壊滅によって国内の混乱はその極に達していた。ひとにぎりの貴族が大多数の農民を支配する。その上、日露戦争の敗退で革命の機運はいやが上にも盛り上がっていたのである。しかし、マルクスの書いた資本論がロシヤに持ち込まれ、ロシヤに生かされるとは歴史の皮肉であり、マルクス自身、夢にも思わなかった。彼の夢はあくまで母国ドイツであり、彼の理論は資本主義の発展が社会主義、共産主義に進むことを必然の過程としてとらえているのをみても、夢と現実のちがいがはっきりしよう。今日のソ連邦はマルクスの図式通りには運営されていないようだ。また、この理論を推し進めるために多くの血が流されたことは見逃せない。
不思議なことに、マルクス理論は発達した資本主義国家に受け入れられず、ロシヤや、中国、北ベトナム、その他の機械化や工業化の遅れている国々に利用されることである。これは、人種差別に等しい階級意識の強い社会、支配と被支配の関係の際立った国家ほど受け入れられることを意味しよう。つまり人間平等、そして隣人愛が失われてくると、マルクスが歓迎されてくるようである。
マルクスはいくつかの誤りを犯している。まず実際的面についてみると、産業予備軍である。生産の過程において資本家が利益を上げる。利益が上がるから再投資を行う。こうした二つの過程からやがて過剰が生じてくる。資本の過剰は利潤率の低下を来たすので、労働者の過剰と窮乏化はさけられないという。ところが現実はどうかというと、この百年間、利潤率は一向に下がらないのだ。下がるどころかドンドン上がって生活が豊かになった。つまり経済の成長によって、企業家は新しい産業を生み出し、新しい商品を生み、新しい職種を作り出していったのである。商品が百年前も今日も依然として変わらず、同じ物に限定されてくると、マルクスの利潤低下の法則が適用されてくる。資本主義は経済の多様を促がし、産業予備軍をもたらすこともなく、この二十八年間の我が国の経済成長をみても、失業者どころか、人が足りず、どこも人手不足で困り抜くという状況であった。したがって、マルクスを受け入れる必要性を感じない。もちろん、資本主義にも眼界があり、問題もある。これはまた後で述べていくが、利潤率の問題以外にも誤りが目につく。労働価値論がそうだし、資源の問題、公害の問題についても触れていない。
特に重要な問題は彼の考えの根底が唯物論であり、そのために経済問題は人間の意思から独立して存在するという点であろう。
私達の住む世界についてはことごとく、私達の意思に無関係なものは一つも無いといえる。とりわけ経済問題は私達が思うこと、考えることがそのまま具象化して現われてくるものである。その現われをどうして人間と無関係なのだろうか。
企業規模が大きくなると人は組織の歯車となり、組織が利潤を生み出すことはたしかにある。しかし人が組織の歯車とはいっても人がいなければ組織は何の用も為さない。人がそれぞれの役を担って働くから、組織に生命が宿ってくる。企業は人なり、というのは、どんなぼう大な組織にあっても、人の意思の反映でないものは何一つとしてないからである。
電子計算機は人間の頭脳を応用した。コンピューターはある時は人間の頭脳以上の役割りを果たし、将来をも予見する。
posted by ゆき at 14:55 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

1974年5月

電子計算機が人間の頭脳の代役を果たすようになれば労働人口は先細りの傾向となり、マルクスがいう様に産業予備軍の急増も考えられてくる。第二、第三の産業革命である。 
装置産業の代表といってもいい化学工場の機械化は凄まじいほどである。
あるS工場では製造部門二十六人で三交代制をしき、一カ月で一万二千トンの製品をつくっている。同系列会社の旧設備は、百五十人も働いて月産六千トンしか生産できない。一人当りの生産性をみると、前者が五百トン、後者が四十トン、一三倍の生産性格差を生じている。
また石油専用船(タンカー)の合理化も進み、二十万トンの巨船に、船員はわずかの二十数名で足りるというのも出て来ている。
そこで、こうした機械化は労働者を駆逐し、失業者を巷にあふれ出すようになるが、しかしオート・メーションがすべての産業に当てはまるかどうか。
また、前月号でも触れたように、経済の成長は、すそ広がりをうながし、新しい産業、商品、職種を生み出して行くのである。
電子頭脳は、与えられた計算は可能としても、創意とか工夫、感情、心については苦手である。
コンピューターは人間が運用してはじめて役に立ち、彼らが勝手に動き出したら、地上はおしまいである。
アメリカが介入したベトナム戦争は、コンピューターで弾いて計算された戦争とも言われている。
戦争は数年で終結するとみられたが、事実は一四年もかかっている。コンピューターは人間の感情や心をとらえることが出来なかったのである。
マルクスはフォードの人間性によって、その考え方がくつがえされたといっていいだろう。フォードが労働者に高賃金を払い、大量生産方式をとることによって、社会を豊かにし、人びとに奉仕した。
今日の我が国を含めた西欧先進国の経済発展の原型は、フォードの体験的な経済哲学を基礎にしているといっても過言ではないようである。
マルクスは、あまりにも理論に走りすぎた。彼の願いは平和と平等にあったようだが、その目的の急なために、人間を見ることをおろそかにしたようだった。
経済法則は人間の意思に関係なく動くという誤りを犯している。
たしかに、現実は人間の意思とは無関係に様々な諸現象をつくり出している。インフレにしろ、デフレ現象にしても、個人の意志に関係なく、生み出されて行く。
しかし、インフレ、デフレといっても、それを動かしている者は誰なのか、誰でもないほかならぬ人間ではないだろうか。インフレ、デフレが突然、降って湧いたわけではあるまい。
人間社会における諸現象の基礎は、すべて人間の意思の下にある。
ただし、意思する方向と、思う、考え、念ずる、方向がちがってくると、両者の間に開きが出てくるのだ。
私達の本来の意思は、健康で、平和で、豊かな暮しを望んでいるはずだ。そうして、こうした意思の下に、正しい想念行為が為されるならば、私達の生活は平和で喜びに満ちたものとなろう。
ところが現実の私達の生活行為は、こうした意思をいだいている反面、自己保存、欲望追及の想念が絶えず動いている。つまり、本来の意思と、想念との間に、大きなギャップが生じているのだ。そのために、意思とは無関係に、社会の流れが変わってきたりしてしまうわけなのだ。
そこで原則的な結論を急ぐとこの問題は、経済法則のメカニズムを、正しい軌道に乗せればよいということになる。意思と想念とを合わせればいいのである。そうして、本来の人間性にもとづいた想念と行為を、経済にも当てはめて行けば混乱はさけられることになる。
森羅万象は循環という自然の摂理の下にある。この循環の摂理を正しく生かすか、自己本位に流されるかによって、混乱と秩序の分かれ目となるのである。
人間の歴史が、経済問題のみならず、平和と豊かな環境を望みながら、戦争と混乱に明け暮れた所以のものは、自己保存と足ることの知らぬ欲望に心がとらわれ、それにもとづいた想念行為にふり回されたためである。
誰しも病気をしたいとは思わないだろう。不幸になりたいなどと考える者は少ないはずだ。しかし病気をしたり、思わぬ蹉跣をきたし、自分の意思に関係なく運命が変わって行くのは、毎日の想念の在り方にかかっていることを無視してきたからなのだ。
先月号で『私達の住む世界についてはことごとく、私達の意思に無関係なものはない』と書いた。
これは現代人が、そしてまた私達の肉体先祖が、自己保存を中心とした想念行為に、本来誰しも意思として内在している平和で豊かなその心の大半を明け渡してしまったがために、そう書いたのである。
したがって、こうした意味においては、インフレにしろ、デフレにしても、私達の意思の下に動いているのであり、経済法則が私達人間の意思とは別個に存在することはないといえるだろう。
マルクスは、人間の心を理解できなかった。そうして、そうした前提の下で理論を組み立てて行ったので、さまざまな誤りが、目についてくるわけである。
思い出して欲しい。
「善には善、悪には悪」という自然の掟を。そうして、思う、念ずることは現象化につ   ながって行き、それは本人の意思とは別行動をとって現象化されるということをも、忘れないで欲しいのだ。
ところでマルクスは実在界(あの世)から使命を持って生まれて来た。その使命とは、当時の社会は彼が悩んだように貧富の差が激しく、労働者の生活はひどかった。資本家はどんどんふとるのに、労働者はその日暮らしであり、生かさず殺さずの形を変えた一部の者に奉仕する奴隷とあまり変わらなかった。
彼の目的は、この矛盾を是正する理論をうち立て、人間性を中心とした社会改革の柱になることだった。生産と消費の円滑な運営が目的だった。
ところが彼は、現実に目を向けすぎた。そうしてその考え方が次第に唯物的方向を辿るようになり、人間から離れていったのである。
彼の目に映じたものは、資本主義のさまざまな矛盾、不平等であった。そしてその不合理の原因は、資本主義の下にある経済の仕組みであり、この仕組みこそ不平等の元凶とみたのである。
確かに、それまでの経済組織は、アダム・スミスに代表されるように、所謂、古典資本主義が、人々の生活を規制していた。
アダム・スミスは一七二三年に、イギリスに生まれ、六七歳で生涯を閉じている。
彼は一七七六年に富国論をまとめ、今日の資本主義社会の基礎づけをしている。
彼は当時の重商主義を批判し、富みとは金銀ではなく、年々労働によって生み出される生産物であるとした。生産物は利己心の経済行為によって生産されるが、しかし見えざる手によって導かれて、公共の福祉を増進するとみたのである。資本主義はこうして全体の調和をもたらす機能を持っているので、これをさまたげる一切の保護政策はつつしみ、自由放任こそ経済発展の基礎というわけである。
現在の我が国の経済、そして西欧先進国にみられる経済組織が、いかにアダム・スミスの考えを底流に動いているかが、はっきりしよう。
経済が幼稚なときは、これでもよかった。しかし、経済規模が次第に拡大され、景気のバランスが大きく揺れ動くにつれて、持てる者と持たざる者の格差がひろがり、不平等のミゾが深まってくる。
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1974年6月

不平等のミゾは、今日のインフレ、デフレをみれば明らかであろう。インフレは富を偏在させ、悪をつのらせ、デフレは暴動と混乱を生む。
インフレの問題については後で詳説するがアダム・スミスのいう自由放任にはマルクス同様問題があった。自由放任の前提には、人々の利己心が支えになっており、経済行為と利己心は切っても切れない関係のようにみられているからである。
経済生活が利己心、足ることを知らぬ欲望を主体に動いている間は、私達の生活は何時になっても調和されない。そうしてまた、人々の欲望を押さえつけた、あるいはある制度によってしばりつけても円滑にはゆかないものである。
しかし今日までの私達の政治的、経済的環境は、人間の利己心、欲望は当然の権利であり、人間性にもとづいたそれであるとしてこれを認め、これを踏まえた諸制度が考案されてきたのであった。このため、争いと欲望はつきることなく、安らぎある生活は、制度的には合理化されてきているが、日増しに遠ざかっているというのが現実であろう。
自由放任制には制度そのものに大きな欠陥があった。簡単に説明すると、次のようになる。
ある時点で商品が売れ出すと企業家は生産設備を拡張しよう。設備の拡充、投資はそれの生産者、原料生産者がうるおうことになろう。いきおいここに働く労働者の賃金も上がってくる。労働者の所得が増えてくれば消費が拡大しよう。生産拡大と消費の拡大が行  われると、やがて供給過多が景気上昇過程のうちに見られるようになる。企業倒産が出始める。倒産が出れば失業者を生じ、消費は停滞し、景気は下降に這入る。
放任経済の下では、こうした景気のパターンが周期的に襲い、運動にはすべてはずみがつくので、犠牲者が多く出たのである。
話しを前に戻して、マルクスの時代は景気の上下動が激しく、古典的資本主義社会の矛盾が目についた。マルクスは、その矛盾がまず祖国ドイツにおこり、共産社会はやがて全世界に広まるとみたのである。インターナショナルの波は彼の予見の通り、全世界に伝わって行くが、心の自由、行動の自由を束縛した制度は大多数の人々に受け入れられず、今日に至っているといえよう。
マルクスは人間の平等、分配の公平を求めながら、人間の本質、心を中心とした人間性を見逃がしており、時代が進行するほど、彼の考えは遠のいてゆくだろう。
ところでマルクスが没した一八八三年に、イギリスにケインズが生まれている。彼は第一次大戦後のイギリス経済に関心をいだいた。そしてまず「貨幣論」、つづいて「雇用・利子および貨幣の一般理論」を発表し、新しい理論体系をたてた。俗にケインズ革命とも言われている。
アメリカ、西欧ヨーロッパ、我が国の経済政策の根幹が、アダム・スミス以来の自由経済を基礎としたケインズ理論による混合経済であることは周知の事実である。マルクスにかわる革命理論といえるし、自由社会にとって彼の出現は、ある意味で、救世主だったといっていいかも知れない。
彼の理論を一口にいうと、需要と供給のバランスを政府が受け持つ。景気が上がれば、金融を引き締め、下がればゆるめる。投資支出は乗数効果によって、実際の支出よりも何倍もの需要を喚起することが出来るというものである。
またケインズは分配の不公平を是正するため高額所得者、金利生活者を批判し、遺産による不平等をある程度否定する。つまり、福祉政策の導入である。年金、社会保険、老人保護など。福祉制策は一面からみると需要を永続させ、景気を維持させる効果もあり、投資のこうした社会化は、今日のイギリス労働党にみられるように、政党の政治理念に深く結びついていった。
彼の考えはいっ時、企業家の批判を浴びた。しかし国家による有効需要を造り出すことが分ってから次第に彼の論にしたがってゆく。ことに戦時経済によって国家の支出が企業をうるおし、戦後も冷たい戦争によって国家と企業の関係はいよいよ密着し、企業家は、批判者から強い支持者にかわっていったのである。この制度によって、経済恐慌も起こらず、失業者も出ないばかりか、餓死者も出ないことになった。
戦後の我が国経済は、このようなケインズ方式によって、戦前までに見られた景気の波に国民がさらされることなく、高度経済成長に酔うことができたといっても過言ではないだろう。
ケインズ理論は古典派資本主義の欠陥を補って余りがあったが、経済の成長が進むにしたがってやはり大きな壁に突き当っていく。
ケインズはマルクス同様に、生産力の発展を無前提に肯定している。ケインズによって物価の上下動はおさまったが、しかし下がることを知らず、上がりっ放しである。
ケインズ以前の通貨は金本位制であった。金の増減が通貨の量を決定して来た。
景気が上昇し、生産、消費が大きくなれば、通貨量も大きくならなければならない。ところが、通貨量は一定なものだから、生産が上がると価格は下がらざるを得なかった。価格を維持するには生産を沈静化するしか方法がない。そこで、景気の循環は金本位制による通貨量と取引量の差によって動かされるということになろう。
例を貿易にとってみると、国際収支が赤字になると、対外支払いのための大量の金が国外に流出することになる。金の流出は国内での銀行券流通高(兌換券)が減り、国内経済
はデフレになる。失業者があふれ物価は下落する。物価が下落すると輸出ドライブがかかるので、国際収支はやがて均衡状態に向かう。金本位制は外国為替相場の安定を保証するが、しか一面、国内経済が激しく揺れ動く欠点があった。
一方、通貨量と共に変動するものに金利があげられる。金利とは一言でいえば金の値段である。その値段は、通貨量が減ると金利が上がり、増えると下がる。
資産家は金利の上下動によって投資したり、控えたりするので景気変動に一層のはずみをつけて来た。そのため、企業家は景気の上昇過程はいいが、いったん下降に入ると深刻な打撃をこうむることになる。
ケインズは、ここに焦点をしぼった。そうして景気を上げすぎない、下げすぎない操作を国が行えば、この矛盾は解消するとしたのである。
すなわち、景気が下がれば、公共投資を増やし、新規事業をおこす。道路、鉄道、港湾等に対する投資である。また高所得者の課税を重くし、社会福祉事業を広め、低所得者に配分し需要を刺激する。
しかしこうした操作は金本位制ではやりずらい。金本位では景気の良し悪しを通貨量が自動的に決めてしまうので、操作のしようがないからだ。いうなれば金本位は経済成長をとめてしまうのだ。
そこで登場するのが管理通貨である。ケインズ政策の中心を為すものはほかならぬ管理通貨制度であったといえよう。
しかし、ケインズ理論にも欠陥があった。前述のように、彼の場合は経済成長を無制眼に発展させる政策であり、成長がとまれば、たちまちにして需要不足が表面化する。いうなればゼロ成長は不可能なのだ。いやが応でも、成長経済を維持し、大量生産、大量消費の使い捨て経済のメカニズムを回転させていかなければならない。
しかし、世界経済は戦後二十九年を迎えて、成長経済のその前途に暗影を映し出している。
その一例は、地球資源の問題であり、管理通貨によって、世界各地にばらまかれた不換紙幣(主にドル)の洪水による悪性インフレである。インフレの大きな要因として賃金の高騰も上げられる。また、大量生産によって各地に公害が発生し、人身をむしばんでいること等である。
posted by ゆき at 14:54 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

1974年7月

ついこの間までの我が国は高度経済成長の名の下に、国民の大多数がこれに踊らされていたといってもいい過ぎではないだろう。年率一○%の成長が仮に今後十年続いたとすれば、日本列島は煤煙都市と変わり、山川草木はみる影もなく、しぼんでしまうだろう。
いったい私達の日常生活にとって物が沢山あった方がいいのか、それとも自然と物との調和を保ち、人と自然の語らいをつづけるべきなのか、今や人々は重大な岐路に立たされている、といえるだろう。
私達は自然を破壊し富を得たが、自然破壊は人間の存立を危くする。死と引き替えに富を求めるか、それとも、生きて安らぎある生活をつづけるか、その選択は、ほかならぬあなた自身にあるといえよう。
さて、私達の生活をおびやかし、世界的な規模で発展し続けている悪性インフレについて、一瞥してみることにしたい。そうして、現在のインフレが、どこから出発し、どこに根があるのか、まったく、新しい視野から展望してみたいと思う。
多くのエコノミスト、評論家は、この小論をみて、冷笑するかも知れない。しかし、いつの日かこうした考えをとり入れ、生産と消費というものを合理化してゆかなければならないと思う。なぜなら、このまま進めば私達の生活はやがて破綻を来たし、混乱、暴動、戦争はさけられそうにないと思うからである。自国の利益のみを求める経済の運用は、最早、狭くなった世界経済の下では運用し切れなくなっている。
とくに、経済生活は人口の増加と密接不可分な関係にある。年々増大する人口と、その生活を維持するためにも、ある程度の成長経済はさけられない。しかし、自己保存、足ることを知らない欲望を基盤とした生産と消費の運用は、やがては地球資源を枯掲させ、戦争や混乱をひきおこす要因となってくるからである。
戦争と経済の悪循環は、広い地球であった時代はまだ救いがあった。しかし、第二次大戦、ベトナム戦争の教訓は、戦争による経済的利益よりも、その負債の方がはるかに大きなものがあったことを教えている。
今日の悪性インフレの引き金となった第一の要因はベトナムを焼土と化したアメリカの物量投下にあったといえるだろう。
アメリカがベトナムに投じた軍事援助額は約一、三五○億ドル、経済援助は五○億ドルともいわれている。
つい一年ほど前、日本が二○○億ドル近い外貨を得て好況に酔い、世界からエコノミックアニマルと、白い眼でみられたことは記憶に新しいが、ベトナムに投じたドルに比べれば、ものの数ではない。
戦争がいかに大きな犠牲を伴ない、そうして物量の大消耗につながって行くかが、これで一目で理解できると思う。
ドルの乱発によって、物と金とのバランスが崩れていった。
大量生産、大量消費の使い捨て経済は、こうした戦争や民需を通して年々拡大され、消費のための生産ではなく、生産のための消費に変っていったため、資源ナショナリズムが台頭し、石油をはじめとした鉱物資源、食糧、木材等の輸出国は年々輸出抑制の政策をとりつつある。
こうした傾向は今後ますます強まる方向にあり、ことに鉱物資源は化石燃料(石油、石炭など)をはじめとし再生産がむずかしく、再生産がきくものでも莫大な資金と高度の技術を必要とするため、資源ナショナリズムは強まりこそすれ、衰えることはないだろう。
資源ナショナリズムはアラブの石油にみられたように、買手市場から、売手市場に変わり、需要が増大すれば天井知らずに暴騰する。すなわち、インフレに一層の拍車が加わ  る。
石油は軍事に、経済生活に、欠くことの出来ない重要な資源であるが、他の資源についても世界的な形でこうした傾向に拍車がかかれば、残るは、生きるための武力に訴えるしかなくなってくる。丁度、我が国が米、英両国から経済封鎖をされて、太平洋戦争(第二次大戦)に突入した、あの時を想起すれば、この事情はたやすくのみ込めると思う。
このまま、この事態を放っておくと、日本沈没どころか、世界沈没にもなりかねない。   
今日の世界的なインフレは、このような混乱の前兆とみて、いいのではあるまいか。インフレーションの語源はラテン語のenflare(インフラーレ)から来ている。その意味は『ふくらます』ということだ。
この言素が使われたのは、一八六一年のアメリカの南北戦争で財政支出が膨張した時を嚆矢といわれている。
アメリカのフイッシャー、イギリスのマーシャルはインフレは通貨膨張によって起こる物価騰貴といっている。つまり、通貨数量説である。
今日のインフレはドルの乱発からはじまったのだから、通貨数量説に原因があるといえよう。
しかし、インフレの要因は、今日では、これだけでは片付けられない。経済的には、これ以外に、いくつかの要因が挙けられてくる。
すなわち、原材料騰貴による輸入インフレ。週休二日制、公害防止等による投資増加がもたらす福祉インフレ。経済構造の変化から起こる需要シフト・インフレ。財産の所有主の移転に伴なって価格が上昇するストック・インフレ。たとえば、土地、株、貴金属、絵画、ゴルフ会員権の移転を通じてインフレが促進される。寡占、独占によって需給操作が意のままになる管理価格インフレ。そして前述の通貨数量説がとりあげる過剰流動性によるインフレなど。
経済成長に伴なって、インフレの種類は、どんどん増えているといえよう。
サテ、ここで経済企画庁がまとめた四十八年版の経済白書をみてみよう。
世界的インフレの進行とその要因について興味ある資料を載せている。
アメリカをはじめ、日本を含めた先進六カ国の、ここ数年におけるインフレの要因が何に起因しているかを、年度別、要因別にあげている。
年度は一九六八年から七三年一〜三月までの五年と三カ月間。
要因別では、@国内需要。Aアメリカを中心とした海外需要により拍車がかかったもの。B景気拡大下の賃金上昇。C景気停滞下の賃金上昇。D輸入コスト上昇。E国際収支黒字による通貨供給増、に分けられている。
そうして、こうした要因によって、物価上昇に結びついた年度を明らかにしている。
各年度を通じて、全体的なトータルでみると、Dの輸入コスト上昇がもっとも多く、二四件。国別ではイギリス七件、アメリカ五件、フランス四件、日本とイタリア三件、西ドイツ二件の順。(注、国別件数は、単年度に生じた要因を一件として数え、物価上昇に結びついたもの。)
次がCの景気停滞下の賃金上昇で一七件。内訳はイタリア六件、イギリス五件、アメリカ三件、西ドイツ二件、フランス一件、日本はゼロ。
次の@の国内需要によるものが、全体で一五件。国別は、日本とフランスが各四件、アメリカと西ドイツが三件、イギリス一件。
Bの景気拡大による賃金上昇は、全体で一二件。内訳は日本、西ドイツ、フランスが各三件、アメリカ二件、イギリス一件。
最後にEの国際収支黒字による通貨供給増は西ドイツ六件、日本二件の八件となっている。
以上の要因別から、各国のインフレは、ドルによる通貨危機は七三年二月の変動相場制によって抑制されたので、景気拡大による需要ひっ迫(@)と賃金上昇(BとC)と輸入インフレ(D)があげられ、その前途の容易ならざることを示している。
posted by ゆき at 14:53 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

1974年8月

世界インフレの要因は前月号で掲げたように、一、輸入インフレ(D)と二、賃金上昇(BとC)三、景気拡大による需要ひっ迫(@)によるところが目立っている。
これらの要因を、国別の国情に照らして説明すると長くなるので、省略するが、今日のインフレの傾向が経済的にどこから来ているかは、右の要因から理解がつくと思う。
ここでお断り訂正したいことは、六一頁二行目に「国別件数は単年度に生じた要因を一件として数え、物価上昇に結びついたもの」としたが、通算年度が五年と三カ月なのに、要因別ではこれを上回る(輸入コスト上昇ではイギリスを七件とした)件数となったのは七二年を上期、下期に別けて各一件と数え、七三年一〜三月を一件としたため、こうした件数になった。説明不十分だったことをお詫びしたい。
さて、インフレの要因は前述のように三つ挙げられるが、この三つについて順を追って説明すると、その第一は、六○年代後半から起ったアメリカ国内のインフレであった。
インフレの原因はベトナム戦によるアメリカ国内の需要逼迫と、賃金上昇による価格競争力の低下であった。このためアメリカは輸入需要を強める事になり、アメリカの国際収支は大幅な赤字が続く事になった。アメリカの赤字は日本、西ドイツの黒字をもたらした。我が国は二○○億ドル近い外貨を得たが、これらのドルは円に替えられ、ダブついた金は土地や株、木材、紙、大豆、石油製品、果てはモチ米等の買占めに走らせる事になった。我が国のインフレはドルの過剰流動性から始まったわけだ。
第二は、すでにみて来たように賃金の上昇だ。六○年代以降の主要国の賃金上昇率は、労働生産性の上昇を上回り、景気停滞期に入った七一年、七二年についても一○%をこえる上昇となっている。
景気停滞期の賃金上昇にたいする物価上昇の遅れと、完全雇用政策による賃金上昇率の下方硬直性の増大があげられよう。
第三の原因は、輸入品の価格上昇である。今日の経済は一国の自給自足、単独では生きてゆけないようになって来ている。それぞれの国が分業し、たがいに製品、材料を依存し合って成り立っている。このため、一国のインフレ、デフレは他国に波及しやすい状況をつくり出している。アメリカがクシャミをすれば、日本は風邪をひくという比喩が底の浅い日本経済を指して言われたが、これは今日といえどもあまり変わらない。GNP(国民総生産)世界第二位といわれても、日本の経済はアメリカを抜きにしては考えられないからだ。輸出の三割はアメリカ一国である。あとの七割を約二十カ国が分け合っている。
一位のアメリカと二位のリベリアでは二・七倍(七一年)ものひらきがある。
輸入品の価格上昇について、今日もっとも重大視されるのは、一次産品の価格上昇である。国際原料市況は七○年〜七一年に軟化したが、七二年六月に入ってからは棒上げである。
国際商品相場指標の代表的指標であるロイター指数(イギリスのロイター通信社が発表している指数)をみると、一九三一年九月を一○○として、七二年五月頃までは五五○であったものが、七二年六月から七三年六月までの一年間に一、○○○の大台を記録し、同年十二月には一、三○○台に達している。七四年六月二十日現在では一部投機筋の投げ物があって同指数は一、二五○台に軟化しているが、成長経済の原則をゼロやマイナスに、落とさぬ限り、こうした一次産品の需要は増えることがあっても落ちることはない。
ロイター指数は小麦、綿花、銅、スズなど、国際貿易の重用度に応じて一七品目選ばれており、国際商品の動きをみる上に重要な指標の一つになっている。
さて以上の三点が、今日の世界インフレの経済的要因として挙げられよう。
そこで次に、ではこうした要因は何故起るのか、戦争にしろ、需要の増大にしろ、賃金上昇にしても、どうして起ったか、あるいは起されるのであろうか。その根底にあるものは人間の欲望なのだ。欲望のさまざまな発展が私達の生活環境の変化をもたらし、そうして、自分の首を自分が締めているという結果をつくっている。人間は欲望のドレイとなっている。欲望に振り回されているのが現代人であるといえる。
システムの上では企業中心の消費経済にある。消費のための生産ではなく、生産のための消費になっている。会社の利益のためには企業は血眼になって、新しい製品を市場に送り出す。
自動車、テレビ、冷蔵庫、電気洗濯機等は耐久消費財である。これらの製品は使い方いかんでは十年でも十五年でも持つはずである。ところが、企業側からすれば一商品が十年も十五年も使われたら会社が潰れてしまう。月産五十万台、百万台という商品生産の操業をとめたら、会社は一日として成り立たないのだ。つくり出された商品は、否でも応でも買ってもらわなければならない。購買心理をあおるには、目先をかえて新製品をドンドン作る。モデルチェンジをはかっていくのだ。
需要をかき立てるには宣伝しかない。人々の欲望を刺激する宣伝によって半年前、一年前の商品を使っていては恥ずかしくて仕方がないという雰囲気をつくり出すのだ。
今日の経済の歯車はマーケッティング技術を支柱とした拡大再生産に支えられているのである。人々はそれに乗って生活している。そして、次々と登場する新しい商品を所有するために、夫婦は共稼ぎを強いられている。
アメリカのサラリーマンは大低、副業を持ち、朝早くから夜遅くまで働き通しという。つつましく、平凡な生活に耐えるなら、夜遅くまで働き、金を求めなくてもいいはずである。ところが、欲望をそそる商品を所有するには、こうしないと買えないというのだ。
隣人がテレビを買えば自分も持たぬと劣等感が家族にまで及ぶ。現在の日本がこうした空気をつくっており、これがまたGNP世界第二位にのし上げた原動力になっている。こうして、社会が経済的に発展? すればするほど、めまぐるしく、せわしく、動き回らなければならない仕組みになっている。
今日では五年先、十年先のことは普通では予測がつかない。老舗といっておっとり構えていたら生きのびることが出来ない。立派な店舗を構えていても、地下鉄が出来、高架がつくられ、道路が広がって行く時代には、人の流れが何時どう変るか分からないからだ。  
今日の世界インフレの演出者は誰かというと、ほかならぬ企業である。株式会社という企業集団がインフレをつくり出しているのだ。勿論、企業を支えているのは人間であり、人間を抜きにしては何も語ることは出来ないが、人々の生活の基盤が企業を中心に動いているので、企業という利益第一の組織に人々がふり回されているといえよう。
そのインフレも昔の場合は生産規模が小さく、戦争とか放任経済による矛盾が作り出してきたが、今日のそれは生産規模の拡大によって、地球資源の乱獲が高まり、その資源の先が見えてきたために、需要と供給のギャップがインフレを招いているのである。
経済企画庁の資料にもそのことがハッキリと裏づけられており、インフレの各国の共通的要因は輸入資材の高騰、つまり、生産に必要な原材料が年々うなぎ登りに上がっているという事実。それがアメリカをはじめ西欧先進国、それに日本にも共通していえる要因をなしているのだ。
輸入資材の高騰は需要増からきており、その需要は企業の拡大生産に原因がある。生産を縮小すれば失業者が巷にあふれ、社会不安が巻き起こるので、一度動き出した拡大生産の仕組みは、そう簡単には止めることは出来ないのだ。ここに現代のジレンマがある。
posted by ゆき at 14:53 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

1974年9月

ひと頃、適度のインフレは企業活動を助け、成長経済を維持するということで、インフレ是認論が大手を振っていたが、昨年六月頃から顕在化した悪性インフレの波によって、インフレ是認論は一ぺんに吹き飛んでしまった。
悪性インフレは昨年十月の中東戦争による石油危機によって頂点に達したが、しかし、それ以前からジワジワと押し寄せ、石油危機がなくとも、インフレは日本を襲っていたのである。ただ石油危機によって、一度に表面に吹き出たといえよう。
日銀発表による六月上句(昭和四九年)の卸売物価指数は前年同月比で実に三五・二%の上昇となった。政府の総需要抑制策と金融引締めで物価は一応沈静化の方向にむかっているが、わずか一年足らずで卸売物価が三五%も上がるなどということは戦時ならともかく、平時では異常事態ということがいえる。
前月号でも触れたように、インフレの演出者は誰かといえば、それは株式会社という企業である。企業集団がインフレを生み出している。拡大された生産設備はそうやすやすとは縮小出来ないし、縮小すれば失業者が巷にあふれ、社会不安が表面化する。
今日の政治の目標は社会福祉の拡大と完全雇用であり、これを抜きにしては政治は語れないだろう。国民の側もそれを望み、その能力のないものは政治の場から姿を消す以外にないわけだ。
国民の大多数は企業という利益追及の組織の中で生活しているので、企業がマイナスになる政治は手のつけようがない。政治の場は、国民の経済生活が如何に豊かに円滑に進められるかにかかっており、そのためには、企業活動が十分その能力が発揮しうる環境をつくり、これに参加している人びとの経済生活の安定を図ることが目標になってくる。外国から日本株式会社と悪口をたたかれても、これを育て、維持しなければならないのだ。
企業はこうした国家の保護の下に発展し、今日に至っているのがソ連、中共などの共産社会を除いた西欧先進国の経済制度だが、しかし企業は資本の参加によって運営される利益追求のいわゆる法人組織であり、利益がなければ資本は逃げてしまう。つまり、企業は利益を産むことによって成り立っている。
政治の目標である公共の福祉とこうした利益追求を第一におく経済活動とは、しばしば衝突をくりかえし、このためさまざまな規制を国家が行い、監視をつづけている。しかしながらアダム・スミス以来の考えが根底にあるかぎりは、経済活動は水が低きに流れるように資本の集中、利益の独占、排他的自己保存のメカニズムはさけられないのである。
今ここで多国籍企業というものについて概観してみよう。
多国籍企業とは、一般的には世界企業とも呼ばれ、当初ヨーロッパを中心に設立され、シェル石油(アメリカ)ユニリーバ(オランダ、イギリス)等があげられるが、今日ではヨーロッパなど先進国に子会社を持ち、多角的に経済活動を展開する米系企業を指している。たとえばGM(ゼネラルモーターズ)スタンダード石油、フォード、モービル石油、U・Sスチール等々、そのほとんどがアメリカ系で、日本では、新日本製鉄、日立製作所などが世界企業三十位のランクに顔をつらねている。
目的は市場の確保のほか、労働力と生産資源の利用を狙っているのが特徴だが、ここへ来て、進出先国と問題を起こしつつある。それは母国の本社に経営が左右される事もあって、進出先国の政治理念(国家目的)と相反する面が出て来ているためである。
たとえば、本国の本社が製品の値段を上げれば子会社も上げる。本社がストをすれば、子会社もストをやる。規模が小さいうちはまだいいが、今日の多国籍企業は、進出先国の経済の五○%、六○%に上がる大企業に成長しているところもあって、製品の値上げは、その国の物価政策に影響を与え、ストは労動政策にも関係してくるのである。
国内産業の五○%以上が外国資本によって牛耳られるようになれば、その国の経済政策ひいては国民生活は外国に依存せざるを得なくなり、形を変えた一世紀前の植民地化とかわりはない。
いな、多国籍企業の進出によって、相手国の経済を握れば、これは新たな植民地化であり、我が国に対する東南アジア諸国の反日思想も、こうした海外投資の行き過ぎから生じつつあるといえるのではあるまいか。
多国籍企業は今日アメリカを筆頭に西ドイツ、イギリス、フランス、オランダ、日本などその数は三百社から四百社にのぼり、その海外依存率は次第に大きくなっている。スタンダード石油、モービル石油、キャタピラーなど主な世界企業の海外活動は当該事業体の四○〜八○%にも達しており、その生産額も三千億ドル(一九七一年)にものぼろうとさえいわれている。
こうしたことから昨年秋の石油危機はメジャー(国際石油資本)に対する0PEC(石油輸出国機構)の反逆ともいわれ、国際間の緊張が相次いで起こっている。
多国籍企業は本社のある本国でさえ押さえがきかなくなっている。アメリカの国際収支は一九六○年代から悪化をはじめた。これは大企業間の海外投資がさかんとなったので、ベトナム戦争と併行して、六○年代後半にはアメリカは大幅な赤字を出すに至った。あわてたアメリカ政府は海外投資を規制しはじめたが、このことが海外で生み出された余剰利益が本国に戻ることをこばみ、ヨーロッパにとどまったため、ユーロ・ダラーとなってヨーロッパ通貨を圧迫し、通貨不安を引き起こす原因ともなったのである。
このような多国籍企業は、今日ではさまざまな問題を惹起せしめている。また、こうした企業活動は国の制約を離れて独り歩きをはじめ国境のない第三帝国を築きつつあるといえる。企業の自由競争はたしかに生産を拡大し、消費生活を広げて行くが、その行きつくところは、資本の集中であり、利益の独占である。そうして企業群のピラミットの頂点がいわば多国籍企業といえるし、企業の目指すところはかつての我が国の財閥、企業の系列化につながってゆくといえる。
こうみてくると、ひと度、組織された企業は、それ自体運動をつづけ、生産は生産を呼んで、拡大再生産の自律運動は天井知らずにひろがってゆくのである。
話を前に戻して、今日の悪性インフレの要因は、前月号にも触れたように、一、輸入インフレ、二、賃金上昇、三、景気拡大による需要のひっ迫の三点にあったが、その根底に流れるものは企業の拡大再生産にあって、これら三つの要因は、いわば現象的に表面に表れた原因であり、問題の核心は企業活動そのものであり、更に、つきつめれば人間の限りない欲望に根があるといえるのである。
つまり、資本主義自由経済はアダム・スミスのいう個人の利益追求にその経済活動の基礎を置いており、企業は、その活動を助ける組織だからである。
そこで繰り返すが、人間の限りない欲望を助長するような制度なり組織というものは、ゆきつくところは破壊であり、闘争につながってしまう。
人間の欲望はこれでよいとする限度を知らない。放っておけばどこ迄も広がってゆく。その欲望の展開が今日の経済社会といえようし、アダム・スミス、ケインズをふまえた、混合経済は無限の発展と、豊かな社会をつくると予想されたその夢も、地球資源の枯渇という、つい二年ほど前まで考えられなかった非常事態を迎える事によって、資本主義社会も、ようやく先が見えて来た感が深いのである。
では反対に社会主義ならどうかというと、人の心はどんな強権をもってしても、これをしばることは出来ないし、やがては反体制運動が起こることは歴史が証明している。
posted by ゆき at 14:52 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

1974年10月

朝日新聞七月二十日付の記事によると「ソ連経済は再び低迷の兆し」の見出しで次のように報じている。
ソ連中央統計局がこのほど発表した六月の工業生産は、昨年同月比伸び率で六・四%と今年上半期で初めて六%台に転落した。また労働生産性の伸びも同四・四%と一〜五月の七・二%から急角度に落ちた。各省別に見ると、六月の計画目標を達成できなかった省がガス工業、石炭、重機械、木材加工、セルローズ、製紙、建設機械、道路機械、公益機械政策の六省にのぼっている。特にセルローズ・製紙工業省は二、三月も月刊目標が未達成に終わっており、ブラーツク木材コンビナートの製紙パルプ工場がこの六カ月間に生産目標を六万一千トンも下回ったほか、アストラハン・紙・パルプ・コンビナートでの工場管理者と従業員とのいざこざなども悪影響を及ぼしたと指摘されている・・・・・・。
記事はこのほか細かく報じているが、企業活動が国営になり、予算や命令、組織が複雑に入り組んでくると、個人の自由活動の余地が少なくなり、生産目標は下限に押さえられ生産性は急角度に落ち込んでくる。
我が国の国鉄は日本最大の企業として知られている。従業員四十五万人をかかえ、北は北海道から南は九州の果てまで、その鉄の帯は約二万キロに及ぶ。戦前までは国営とはいえ独占の強みで黒字を計上していたが、戦後は自動車の発達と内航海運のピストン輸送から赤宇に転落した。経営は国営に準じた公社(パブリック・コーポレーション)として昭和二四年、駐留軍の強い要請で衣替えしたが、組織の肥大化と、人事の硬直化で時代に即応した転換がきかず、マンモス企業であるが故に国の要請も強く、こうしたことから自己資本(一兆五八九六億円)を上回る一兆六千億円(四十八年度末国鉄監査委員会報告)にのぼる累積赤字を出すに至り、利子補給やさまざまな国の援助をうけねばやってゆけぬありさまとなった。
我が国の国鉄とソ連の国営企業とはさまざまな点で比較する方が無理だが、公社の発想はもともとソ連の独立採算制度を模して考えられたもので、それだけに何か共通的なものがうかがえる。
ソ連の場合は革命後五十四年(革命一九二○年)を経、国民の間に不満と不信がめだち始めており、官僚国家の弊害が産業活動の上に現われて来た、といえなくは無いだろう。生産を上げるためには残された手段は強権であり、強権と生活の規格化は過度の管理社会ではさけられぬ宿命といえよう。
人びとの心が人生の目的を知り、その役割に任じて平等互恵の、調和された物心両面の経済社会を望むならば、生産消費のアンバランスは起こりようがないだろう。だが、物質至上の思想を背景に社会主義ないしは共産社会を推し進めようとすると、もともと欲望の何たるかを知らずに動いているのだから、いつしか支配と被支配のシステムが、出来上がり、官僚化の弊害はさけられないものとなる。
こうみてくると、社会主義も一つの壁に突き当たって来ているといえる。
さてインフレの原因とみられる資源問題について若干触れてみよう。
資源問題が今日これ程世界的な視野で騒がれて来た一つの理由は、例のローマ・クラブの「人間の危機」レポートが発端になっている。日本でも翻訳され、一九七二年五月にダイヤモンド社から出版されている。
ローマ・クラブは一九七○年三月、スイス法人として設立された民間組織で、世界二十五カ国、約七十名の会員から成り立っている。メンバーは、科学者、経済学者、教育者、プランナー、経営者、などから構成され、公職者は含まれていないのが特徴である。したがってイデオロギーや国を代表する色彩が無いのが特色だが、先般、東京で開かれた同大会では政治的発言がめだち、メンバーの足並みの乱れがあったのは遺憾だった。
クラブの目的は最近とみに深刻な問題になって来た天然資源の枯渇化、公害による環境汚染の進行、発展途上国の爆発的人口増加、軍事技術の進歩による大規模破壊の脅威など人類の危機を如何にして回避するかを探索することを目的としている。
さて、同クラブが発表している地球の鉱物資源の耐用年数を挙げると次の通りである。
幾何級数的耐用  現在埋蔵量を五倍にした
資 源    年数指標(年)  場合の指標(年)
アルミニュウム   三一        五五
クローム      九五       一五四
石炭       一一一       一五○
コバルト      六○       一四八
銅         二一        四八
金          九        二九
鉄         九三       一七三
鉛         二一        六四
マンガン      四六        九四
水銀        一三        四一
モリブデン     三四        六五
天然ガス      二二        四九
ニッケル      五三        九六
石油        二〇        五○
プラチナ属     四七        八五
銀         一三        四二
錫         一五        六一
タングステン    二八        七二
亜鉛        一八        五○
ここで数字のとらえ方について説明すると幾何級数的耐用年数指標とは世界経済の成長が年率七%で進んでおり、そのため資源使用量は年々加速度が加わり、このテンポで進むと現在地球上で発見されている資源埋蔵量は、アルミは三十一年、金は九年しか持たないというのである。
たとえばクロームの埋蔵量は約七億七千五百万トンといわれ、現在の年間使用量(百八十五万トン)で行くと、そのストックは約四百二十年間という計算である。ところが世界のクローム消費は年二・六%で増加しているのでこれでいくとわずか九十五年しか持たないというのである。また、下の数字はこの埋蔵量が今後各地で発見されて、仮に五倍に増加したとしても百五十四年で底をつくというのである。
このようにして百年以上ストックが可能なものは、幾何級数的耐用年数指標では僅かに石炭のみで経済危機をもたらした石油にあっては後二十年しか持たない事になっている。仮に未発見の石油が現在の五倍程になったとしても五十年で底が尽きるという訳である。  
経済の成長が資源ストックを食い潰すということを今日ほど切実な問題としてクローズアップされたことはかつてなかっただろう。化石燃料に至っては、再生はむずかしく使ってしまえば元には戻らないことを知るならば、経済の成長に何等かの規制を加えなければならないことがこの数字からもうかがえる。
ローマ・クラブの数字については各種の見方があって悲観的すぎるという議論もある。が、しかしストック年数に多少のズレはあったとしても、その事実は無視するわけにはゆかないだろう。いずれはその時がやって来て代替物を求めなければならない。仮に、技術の進歩に期待し、代替えによる不足分を補うことを考えたとしても、技術には莫大な資本と労力が必要だし、技術の進歩にも限界があることを知る必要があろう。
技術については、また後で触れるとして、右にみたように、ローマ・クラブの発表によって地球資源の重要性があらためて認識され、それによって資源ナショナリズムの下地がつくられ、市場は買い手から売り手に、ここ一、二年の間にがらりと一変してきたのである。その代表的指標が既述したようにロイター指数などに表われており、世界をインフレに巻き込みつつあるといえる。
posted by ゆき at 14:49 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

1974年11月

資源問題についてもう少し触れてみよう。ここ一、二年の我が国の物価急騰は、戦後経済においても、国際的に見ても異常であったといえる。
わが国の場合はこれまで消費物価は上がっても、卸売り物価は比較的安定していた。大企業は生産性の向上によって賃金引き上げ分を補って来たし、賃金引き上げを価格に転嫁しなくてもやってこられた。
卸売物価が上昇に転じたのは昭和四十七年八月頃からで、翌四十八年八月からは棒上げとなった。四十五年平均に対する上昇率でみると、四十八年七月には西ドイツを抜き、十二月にはアメリカ、イギリスを追い越し、先進主要国ではインフレと破産状態に悩むイタリアに次いだ上昇率となった。消費者物価については、これまで最高のイギリスを抜き、ついにトップにおどり出ている。
いったいこの原因は何なのだろう。
日銀調査によると、ロイター指数の急騰と歩調を合わせて卸売物価指数が上がっているのである。つまり、輸入物価指数と同一歩調で上がっている。
このほど発表になった経企庁の四十九年版(四十八年度)経済白書も、物価急騰の約六割は、原油をはじめとする一次産品の市況高騰によると分析している。残る四割は国内の需給ひっ迫によるとし、賃金の影響はこの時点ではさほど大きくはないと見ている。
これを時期的推移でみると、四十八年一月から三月には、四十七年秋口からはじまった海外一次産品価格の急騰の影響が出はじめ、四十八年度に入って国内需給のひっ迫が高まり、工場の事故や用水不足で物不足が表面化した。四十八年秋に入るや例の石油危機の発生を契機として海外要因が再び勢いを増し、国内需給要因としてはインフレ心理が拡大し卸売物価をいっそう持ち上げる原因を作った。
もちろん、この物不足現象は、化学工場等の相次ぐ爆発事故、用水不足だけとは言い切れず、一部商社の買い占めも物価高騰に輪をかけている。
ともあれ、今日の物価高騰の大きな要因は、資源ナショナリズムの台頭によって、もたらされたことは否定できないだろう。そうしてそれは、石油危機を契機として、一層顕著になりつつある。
そこでいったい、資源ナショナリズムというものが、どうして、生じてきたかである。すでに述べたように、資源の枯渇にその理由がみられるが、資源ナショナリズムは現実的には、巨大な国際資本に対する抵抗として表れて来ているのである。一国の経済の中で、多国籍企業が占める割合が、国民所得の五○%、六○%、否それ以上に昇るようでは、もはや、独立国とはいえず、しかも有限な資源は、使ってしまえば、いずれは枯渇し、枯渇
後はどうして生活していくか、ということを考えれば、当然、自衛手段に訴えてくるようになる。
企業の国営化、生産調整、輸出の規制、価格の引き上げ等は、これら資源国の残された手段になってくる。
ちなみに、通産省調べによる現在設立されている生産国同盟を挙げてみると次の通りである。
▼0PEC(石油輸出国機構)加盟国
―――ベネズエラ、サウジアラビア、イラン、クウェート、カタール、インドネシア、
リビア、アブダビ、アルジェリア、ナイジェリア、エクアドル、イラクの十二カ国
▼0APEC(アラブ石油輸出機構)加盟国
―――サウジアラビア、クウェート、リビア、イラク、カタール、アブダビ、
アルジェリア、バーレン、シリア、エジプトの十カ国
▼CIPEC(銅輸出国政府間協議会)加盟国
―――チリ、ザイール、ペルー、ザンビアの四カ国
▼IBA(ポーキサイト生産国機構)
―――ギアナ、ジャマイカ、シエラレオネ、スリナム、オーストラリア、
ユーゴスラビア、ギニアの七カ国。
▼UPEB(バナナ輸出国同盟)
―――パナマ、グァテマラ、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカ、コロンビア、
エクアドルの七カ国。
▼水銀生産国グループ加盟国
―――アルジェリア、スペイン、メキシコ、ユーゴスラビア、トルコ、の五カ国。これにカナダがオブザーバーとして参加している。
このほか鉄鉱石、錫、天然ゴム等の生産国が同盟を結ぶ動きが出ている。
右に見るとおり、その資源産出国はいずれも発展途上国である。しかしその資源はいずれも国際経済のうえで欠くことのできないウェイトを占めている。
ところが、これら資源保有国における探鉱生産、消費国への資源供給は、寡占的支配体制を確立している巨大国際資本である。
たとえば銅についてみると、七二年時における自由世界銅鉱石生産の四四・七%はアングロ・アメリカをはじめ、ケネコクト、アサルコ、二ーモンドといった大国際資本が占めている。
アルミニウムは七一年時で自由世界生産の六八・九%、ニッケルに至っては、七○年時にインコ一社で五三・八%も占めている。
いかに、国際資本が、国際経済に占める役割が大きく、資源保有国の不満をもたらしているかが分かる。
ことに発展途上国の経済発展の遅れは、年々開くばかり。いわゆる南北問題が今日、国際経済の上において、大きく立ちはだかってきたのも、こうした国際資本の寡占化体制による一国の経済支配が見られるからである。
資源ナショナリズムは、自国が供給する資源を利用して高度成長を遂げている先進諸国に対する不満と反発であり、したがってその資源をテコとして自国の経済発展をはかろうとする動きを示すのである。
石油をはじめとした産出国同盟は、国際資本の支配から脱皮して、自国の経済自立を図ろうとするものであるが、一方において、これらの資源価格は、これまでは先進国の景気に支配されて来たので、産出国が同盟を結ぷことによって、そのシェア拡大をはかるというネライもあるわけである。そうすることによって、買手から売手市場に方向を転換し、価格の安定と、自国の経済を有利に導くことが考えられてくるわけだ。
資源保有国のこうした動きは、我が国にとっては致命的打撃を与える。我が国は原材料を輸入して、これに加工を施し、付加価値を生み出し、輸出によって生活している。
輸入材料が高騰すれば、その影響は石油にみられるようにモロにかぶり、価格の高騰、輸出不振につながってくる。
資源ナショナリズムは我が国にとって大きな痛手である。
四十八年度にみられるような動きが今後も続くとすれば、我が国の経済は立ち行かなくなってゆくだろう。我が国の資源は人的資源と勤労と技術である。この三つの力が、GNPを世界にのし上げた一面の原動力といっていい。
しかし、原材料の高騰によって、インフレが加速されれば、輸出によって支えてきた産業構造は一朝の夢となり果てて行こう。
もっとも資源保有国は我が国の技術を必要とし、自国の利益のみ考えては、これまた経済の安定は期し得ないだろう。
文明は、生活を均等化し、相互の結びつきをいっそう緊密にしてゆくものだ。それだけに何かが少しでも狂うと、全体の機能をマヒさせるモロさを持っている。早い話、ガスや電気がとまれば、都会生活は明日にも暗黒と化し、生活の機能はとまってしまう。これと同じように、世界経済の機能も自国の利益のみでは成り立たなくなっているのだ。
しかし、多国籍企業と国際資本は、こうした機能にこれまで確かに貢献をして来たことは否めないが、次第にその力を増すことによって自国の制約すら拒否し、どの国にも属さぬ、第三帝国として世界経済を撹乱に導いたことは、これまた見逃せない事実であると言えよう。
posted by ゆき at 14:49 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

1974年12月

今日の悪性インフレの原因はどこにあるかについて、本誌七月号から十一月号の五回にわたって、大雑把ではあるが見てきた。
その結果、インフレの原因は、さまざまな経済的要因が重なりあって作られてきているが、ここ一、二年のもっとも大きなファクターは石油をはじめとした輸入原材料の暴騰ということが明らかになった。
そうしてまた、その原材料を騰貴させた遠因はどこにあったかといえば、国際大資本、多国籍企業の弊害がこれらの資材を高騰させる大きな作用を及ぼしていたことが分かってきた。
つまり、インフレをつくり出している原因は、企業エゴによる利潤追求によるところが大きく、このためインフレを終息させるには、これに何らかの制約または視点を変えた、まったく新しい対策なり、制度なりを考えなければならないことが、うすうす理解されてきたと思う。
アダム・スミス=ケインズ方式では、地球はやがて公害にも襲われ、過度のインフレによって、やがて人類の生存すらあやしくなる、ということも感じられてきたと思う。
インフレについてはいろいろなとらえ方があるが、要はその根底に流れるものは人間の欲望の解放であり、それが企業活動に取り入れられ、利益の追求、そうして、利益の分捕り合戦が年を追うごとにエスカレートしてきているところにあるわけである。
たとえば企業内についても労働組合の組織化、巨大化によって賃金の引き上けがエスカレートしており、これが物価にハネ返り、インフレを助長している。
近代経済社会は市場メカニズム、価格メカニズムを支柱として動いている。ところが、そのメカニズムの有効性が失われ、価格に信頼性がなくなってきているところに問題がある。
あるエコノミストは今日のインフレについて、こういう見方をしている。
今日のインフレは大衆組織による民主主義である。組織化された民主主義はどこへ突走るか。それはより多くのパイ(所得)の分捕りに向かって走り出す。
世界中どこに行っても組織化が行なわれ、自分の所得の増大を狙って戦術を練り、組織力にものをいわせ、相手がきかなければストをやる。ニューヨークでは巡査のストまで行なわれている。
今日の民主主義の考え方はどこにあるのかといえば、労組も、農民も、教職者も、医師も、自分の欲望を抑えたりすることは、人間性に背く封建的行為であり、欲望の解放こそヒューマニズムの現われとみている。
経営者でも政治家でも、頭の古い連中は反民主的封建的な人間だから、こうした連中は組織にものをいわせ、ひきずり降ろさなければならない、というわけだ。
こうして賃上げはとめどもなくエスカレートし、今年の我が国の春闘でも三二・九%という大幅なものとなった。こんなことを毎年くり返したとすれば、十五年後には一人当たりの年間賃金はゆうに一億円にふくれ上がるだろう。
これではインフレにならないのがおかしいではないか、というのであるが、たしかに、現在の社会は組織化された大衆民主主義であり、いわば徒党を組んで、自己の欲望を果たそうという動乱の世といえるだろう。
さて、今月は、過度の利益追及によってもたらされる公害の問題について若干触れてみたい。
つまり公害が私たちの生活にどのようにハネ返ってきているか。
一昨年の六月、ストックホルムで、国連人間環境会議が開かれ、環境汚染に対して『人間環境宣言』というものが発表された。
『われわれは、歴史の転回点に到達した。いまやわれわれは、世界中で環境への影響に  対しいっそう思慮深い注意をはらいながら行動しなければならない。無知、無関心であるならばわれわれの生命と福祉が依存する地球上の環境に重大かつ取り返しのつかない害を与えることになる』
というもので、環境汚染の問題はこの宣言にもあるように今や重大な局面にまで発展してきているのである。
ローマクラブの報告を参考にしよう。
まず人間にとって欠かすことのできないものはエネルギーである。また富を表わす指標の一つは、一人当りエネルギー使用量であるが、現在この使用量は年平均に三・四%(人口成長を含めた総量)増加している。
人類の工業用エネルギー生産の九七%は化石燃料(石炭、石油、天然ガス)を使っている。これらの燃料が燃焼されると、他の物質とともに大気中に炭酸ガスが放出される。最近では年に約二百億トンの炭酸ガスが化石燃料の燃焼から発生している。
大気中の発生率は年約○・二%の上昇を示しているので、そのうち半分は大気中に、残りの半分は主として海洋の水面で吸収される。化石燃料から原子力に変わることがあるとすれば、大気中の炭酸ガスの増加をとめることが可能である。
しかし、エネルギー使用には副次的な影響が出るものであり、これはエネルギーの種類に関係がない。
すなわち、熱力学の法則によれば、人間によって使用されるエネルギーのすべては最終的に熱の形でまき散らされる。この結果、局地的には放出される熱、あるいは熱汚染が、水棲生物の均衡を破壊する原因となる。
四千平方マイルに及ぶロスアンゼルスの盆地に毎年放出される廃熱は、大地に吸収される太陽エネルギーの五%にのぼるといわれる。現在の成長率でいくと排出熱は西暦二○○○年までに、降りそそぐ太陽エネルギーの一八%に達するものと見込まれている。
一八%というと、普通なら三○度ですむところが三五・四度に高まることになり、そうなれば河川のプランクトンが死滅し、それを食べている小魚、さらにそれを食べる魚まで死滅してしまうことになる。
現に、海流の流れの弱いバルト海は有機性廃棄物の蓄積が増えた結果、海水中の溶解酸素量は次第に減少し、海底部の海水中には溶解酸素濃度がゼロとなり、海棲生物が生存することができなくなったと伝えられている。
このほかDDT、水銀、鉛、カドミウム、PCB(ポリ塩化ビフェニール)や放射性廃棄物等も汚染物質として、最大の関心を払ってゆかなければならないことは、すでに我が国の公害病患者の続出によっても明らかである。
西暦二○○○年には現在の人口は約七十億人が見込まれ、これらの人々がアメリカと同程度の高い(一人当り)GNPを持つとすれば、環境にかかる総汚染負荷量は、少なくとも現在の十倍になるものとみられる。
そうした場合、地球の自然システムは、このような大規模な撹乱に耐え得るかどうか、甚だ疑問とならざるを得ないわけである。
公害の問題は、これをはっきりとつかめるものもあるが、大部分は大気中に拡散し、それが自然や人体に、将来どのような形で現われてくるかは、現代科学では未知数である。がしかし、局地的には非常に明確に現れてきていることも事実であり公害問題は、経済の成長に比例して、ますます大問題になってきているのである。
さて、公害は経済成長に比例して大きくなることは、前述の説明で十分理解ができようし、我々の身近な生活環境をふりかえってみても、年々大気は汚染され、地盤は沈下し、水質汚濁もひどくなる一方である。
ローマークラブもその点を指摘し、今後これ以上の経済成長は取り返しのつかない危機をはらむと警告しており、経済生活の新しい転換を求めている。
すなわち、最小の費用で最大の効果を上げようとして、これに企業のエゴが、露骨に、現われ、その結果は地球資源の枯渇をうながし、公害をまきちらし、インフレをつくり出しているのである。
posted by ゆき at 14:48 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

1975年1月

これまでインフレ問題、公害の問題を述べて来たので、生産と消費を結ぶ流通問題についてふれてみたい。
というのは流通問題は物価高の最大の原因と見られており、ドラッガー(アメリカの経済学者)をして、流通は経済の暗黒大陸といわしめているように、学問的にも経済研究の暗黒大陸をなしていると思われるからである。
すなわち近代経済学は、生産こそ価値ある活動とするマルクス経済学から一歩も出ておらず、流通問題は未開発の分野といってもいいからである。
さて理論的問題はあとにゆずるとして、まず現実的に流通経費が価格に占めるウエイトはどの程度になるかについてみると、たとえば、カラーテレビの原価はただの二万円、ウイスキーは三十円にすぎない、また三千円の万年筆がなんと百五十円といわれている。果たして実際にそうなのであろうか。
先日、NHKが牛肉と野菜の産地から小売までの流通マージンについての追跡調査を実況放送していた。その追跡調査の結果はどうだったかというと、正確な資料は何ひとつ集まらず、追跡レポートは全くお手上げの形となった。
牛肉も野菜も産地は過剰生産であり、したがって小売価格は安くなってもよい筈のものだが、一向に下がらず、むしろ値上がり傾向を示している。
そこで、NHKはどこでどう値がつり上げられているか、まず産地の声をきき、次に第一次卸、第二次卸、と順次上がっていって、最後に小売店で仕入値段をつきとめるわけだが、どこの店にいっても誰一人はっきりした数字を示してくれなかった。比較的はっきりしていたのは産地側であり、このため産地側の値段と小売価格の幅をみると二・五倍から三倍になっていた。
こうした調査は、経済企画庁、通産省、総理府などでも度々行なっているが、正確な数字はどうしてもつかめない。
そこでその理由についてあげると生活必需品については価格がたえず変動しており、ことに野菜、鮮魚などは毎日ちがう。毎日ちがうから、そのちがった値段で小売価格を決めたらよいと思われるが、仕入れたものが即日全部売れるとはかぎらない。もう一つの理由は卸値段のように、小売値段を毎日仕入値段に合わせていたら、値段が高くなったときはお客が寄りつかず商売にならなくなってくる。
こうしたことから、仕入値段の高低にもかかわらず、小売値段は一定水準以下には落とせない、ということになってくるようだ。同じようなことは問屋や卸についてもいえてくるし、このため、消費価格は一向に下がらないということになるわけである。
メーカー品についてはあとで述べるが価格の硬直性がみられる。
国際的にみて、我が国の流通機構の特徴をあげると、まずその第一に企業規模の零細性にある。小売業の一店当り従業員数は、昭和四十七年度で三・四人(全国平均)となっている。これがアメリカだと五・三人、イギリス五・一人、西ドイツ五・四人である。
店舗の零細性と店舗数が他国と比べ多いということは流通経費の増大をうながすことになる。ことに人件費が集中的に多くなろう。
一方、我が国の場合は中間取引の比重が大きいことである。小売業に対する卸売業の比率を販売額についてみると、アメリカ一・五倍に対して、日本は三・八倍と大きい。日本の経済機構は問屋を中心に発展してきているので、小売価格に占める流通経費の比重がどうしても大きくなってくるようである。
その典型的な存在が我が国の総合商社である。すなわち第三の特徴として、一九七○年の販売額(経済企画庁調査)についてみると、日本のそれは一○三・八億ドル、イギリス一○・六億ドル、オランダ九・五億ドル、イタリア五・二億ドル、フランス三・七億ドルとなり、日本の総合商社の販売額の巨大さが目を見張る。
こうした日本の流通機構の特徴は、中進国の段階において、過剰労働力を吸収しながら貿易を発展させ、経済成長をはかって来た歴史的特性ともいえる。
しかし、インフレがここまで高進し、消費者物価、卸売物価が世界第一、(イタリアを  除く主要五カ国)ということになると、流通経費を黙って見過ごすわけには行かなくなってくる。
総合商社についてもう少し触れてみると、その機能拡大には貿易の急拡大がある。商品別取扱いシェアをみると、経済企画庁調べで輸入品四八・四%、輸出品三四・〇%、国内品一三・七%を三井物産など六大商社が扱っている。これが一次産品の輸入になると食糧は約七五%、大豆約八○%、主食用大麦七八%という大きさである。五○%以上にのぼるものは、飼料用大麦、原糖、コーン、マイロにわたっている。このほか、木材、綿花についても三○%〜四八%までが六大商社が受け持っている。
いかに商社の機能が巨大であり、戦後貿易に果たした役割が大きいかがうなづける。
こうしたことから、我が国の総合商社は情報提供の機能、商品、市場開発機能、需給調節機能などを持つように、産業構造の変化のなかでシステムオルガナイザーとしての役を果たしているといえる。
商社の役割としてもう一つ見逃せないことは、投融資機能の拡大と、リスクの増大に対する負担をあげることができる。
上場千五百二十八社の内、六大商社が持株順位十位迄占めている企業数はなんと五百八十八社、つまり三八・五%に達し、また対外投資件数のうち三七・一%(六百五十八社)は六大商社が関係している。
国内関係の子会社数は実に六百七十四社に及んでいる。
こうしたことから投資収益についてみると、商社の資金コストは、製造業をやや下回るといわれるが、投融資利回り水準は製造業をはるかに上回っているといわれている。
四十七年後半以降、四十八年度にかけて、流通過程における投機的行為が目立つようになった。
買占、売り惜しみが生活必需品にまで集中したため、国民生活全体に大きな影響を与えることになった。
自由経済下にあっては、投機機能が果たす役割を無視することは出来ないが、企業の目的が利潤の追及をめざす以上は、どうしても行き過ぎてしまうことになる。
資本と企業の行き着くところは、さきに国際資本、多国籍企業にみたように、その弊害はさけられない。
ここへ来て、石油暴騰による世界経済の混乱に乗じて国際石油資本、いわゆるメジャーが巨額の利益を得ているということで、ようやく、国際世論が高まって来ているが、こうした流通機能は一方において巨額の利益をもたらし、他方においてさまざまな弊害を与えずにはおかない、という矛盾を含んでいる。
何れにせよ、流通経費をいかにして節約するかということで、これまでメーカーによる小売店の系列化(家電、医薬品、化粧品など)次に、総合スーパー、レギュラー・チェーンなどの流通機構内部の組織化、第三には包装技術の向上、コンテナ輸送の拡大、在庫管理技術の向上、高速道路網、港湾施設の整備など、流通機構の短絡化がとりあげられてきた。
しかし、こうした努力にも拘わらず、反面において、市場の硬直化を招き、系列化の過程ではメーカーの影響力が強まり、価格は一向に下がらないという結果になった。
たとえば、メーカー系列下では販売競争は価格競争という形ではなく、リベート競争、マージン率競争という形となって現れた。
販売額を上げるためには、小売店のマージン、リベートなどの販売奨励を進めるため、最終末端価格は上げることはあっても下げるわけにはゆかないし、したがって価格維持協力金、早期支払に対する報酬といったものまでメーカーは負担せざるを得なくなったからだ。
posted by ゆき at 14:48 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

1975年2月

医薬品の再販制度は市場価格の硬直性を示すよい例である。たとえば、メーカーの販売促進費は同制度を採ることによって大巾にふえている。開発銀行の資料によると、薬品メーカーの販売促進費は昭和四十年度で約百六十億だったものが、四十九年度では実に五百億円にも達している。
メーカーが小売店を系列化することによって、流通経費の負担を軽くすると考えられたことが実際には販売奨励のための諸経費に食われ、その効果はさっぱり上がらなかった。 
一方、すでに記述したように、零細過多の小売店が欧米のそれより多いということ、すなわち我が国の小売店数は約百三十九万店。販売規模も小さく、賃金高騰の今日では、小売商の生産性の低さはマージン率の上昇につながってゆく。
他方、総合商社を代表とする問屋機構の存在は、流通経費を押し上げる事はあっても、下げる素地を減殺している。
話は変わるが、今から十六年ほど前に「流通革命」という言葉が叫ばれ、通産省、運輸省、建設省共管でこの問題が大々的に取り上げられた。
すなわち、流通機構の短絡化ということから、コンテナ輸送の拡大、包装技術の向上、パレットのプール化、高速道路網の拡大、港湾施設導入が進められた。
コンテナ輸送はまず国鉄が採用し、ずっとあとになって海上コンテナが出現した。コンテナ輸送は肩荷役を機械化するので、人件費の大巾な節約となる。それまでの鉄道貨物輸送は積荷、積卸しはすべて労働者の肩荷役に頼っていた。所得倍増による政府のかけ声によって人件費はうなぎ登りにのぼったので、コンテナの採用は流通経費の節減に大きな期待が持たれた。海上コンテナはアメリカのベトナム軍事輸送に効果を上げたことから、我が国もこれを採用することになったもので、港湾整備は海上コンテナ輸送に呼応して整備されていった。
こうした施策によって、それでは流通費用はどれほど節約になったか。つまり、消費者価格引き下げにどれだけ寄与したかである。消費者物価の趨勢をみるかぎりは、少しも下げていないのである。全国平均の消費者物価はこの十年間で、年平均すると、約八%の割合で上がり放しである。下がったことは一度もない。
なぜ下らないのだろう。流通機構の機械化によって、こうした輸送業者が利益を一人占めしたのだろうか。事実はそうではなく、ひと度はじまった機械化の導入は連鎖的に次から次へと相次いで起こり、減価償却がまだ完全に終らないのに新機械を購入しなければならない状況におかれたからであった。したがって、人件費は大巾に減ったが、設備投資に大量の資金が必要となった。輸送経費を下げるどころではなかったのである。
もっとも輸送の機械化によって、大量の貨物の荷さばきが可能になったことが、流通革命の救いといえばいえようが、それもホンの一時であって、交通の渋滞によって末端の輸送効率は年々下がる一方であった。レール輸送、海上輸送は合理化されても、これでは流通費用は上がることはあっても下がることにはつながらないといえる。
近代文明は科学に裏打ちされた技術導入による合理化の上に立っている。が、この技術こそ、多くの問題をふくんでいることを知るべきだろう。すなわち、資本と技術の関係を明らかにする事によって、近代文明の矛盾が浮彫りにされてこよう。同時にこの問題は、近代人を支えている思想にも大きく関係してくる問題であり、今日の危機は、経済の危機というより、むしろ思想の危機である事をまず知る必要があるだろう。この問題は、またあとで詳しく述べることにしたい。
さて、本題に戻って、流通のムダが価格上昇につながることは否定できない。といって生産と消費をつなぐ流通機構を抜きにした経済機構を考えることはできない。近代経済は生産の集中、大量化を促がす。しかし反面、消費は分散少量化である。この二つを結ぶ接点は流通であり、したがって、その大部分の商品は生産、流通、消費という過程を通らざるを得ない。
この意味において、いわゆる卸売機構というものは、なくならない。今日のように、多様な商品が出回ってくると、卸売機能はますます必要になってこよう。
問屋無用論は物価がハネ上がると叫ぶが、集荷と分荷という問屋機能は、大量生産と分散少量消費という図式の下では、これをさけて通ることは絶対にできない。仮りに問屋を素通りして、メーカーと小売店を直結したとしても、この両者のどちらかが、集荷と分荷機能を持たなければ経済運営は円滑にゆかないからだ。既にみてきたように、メーカーによる小売店の系列化によって、流通費用が削減できたかというと、事実はその反対であった。また問屋機能はメーカーが受け持ち、ここでも無用論は通らなかった。
そこで大雑把ではあるが制度面からみた問題の一つは、多段階卸売機構であり、これは我が国の特徴といえるようだ。つまり、集荷のためにまず産地問屋があり、中継問屋があり、分荷のための一次卸、二次卸、三次卸というように分かれている。当然、そうした問屋の手を経れば数パーセントのマージンが含まれ、流通経路が複雑になれば、消費価格にそれが含まれることになる。
欧米のそれは、我が国のような多段階による卸売機構はないようである。前月号でもみてきたように、比較的多いと思われるイギリスの商社の販売額でさえ我が国の商社の一○分の一である。卸売業者の取引は少なく、製造業者から小売業者が直接商品を買って商売をしている。また、欧米では電話で注文を取ったり、倉庫、輪送なども合理化されていると聞く。我が国の場合は多くの従業員をかかえ、人海戦術で商売をしている。
生協活動がふえてきたのは、こうした流通機構に問題が多いからである。
第二の点は、流通機構は物を中心とする生産に比べて、多くの人間の組み合わせによって動いていることである。そのために問題を非常にむずかしくしている。
欧米がそうだから我が国もそれにならえといっても、流通分野における制度、慣習、市場の条件、生産の形態、構造のちがいを一挙にひっくりかえすわけにはゆかない。実際には、長い時間をかけねばならないようだ。
メーカーによるマーケッティング活動が活発となり、メーカーが直接販売活動に入ってきたのは昭和三十五年頃からであった。アメリカ式の大量生産、大量消費を目標に、「消費者は王様」「消費は美徳」ということでその活動が始まった。マーケッテング活動の前提は @ 製品の差別化、特徴化 A 大量広告 B 流通の系列化にある。Bのそれは卸、小売をメーカーの支配下におき、他社との競争をさけ、専売による利益をめざした。自動車、家電、化粧品など巨大メーカーは、これによって莫大な利益をあげた。マーケッティングはこのため、寡占価格を生み、消費者の力が及ばないところで価格形成が行なわれた。アメリカ式のそれは合理的で一見いいようだが、市場条件がせばまり、独占価格を生むことになる。流通経費を下げようにも下がらない。こうした意味で、いちがいに日本の流通機構はムダが多い。アメリカ式がいいとはいい切れないものがある。流通費用節減には、流通機構の合理化をめざさなければならないが、問題はやはり人間になってくる。流通は経済制度が社会化、計画化されても無くならないし、無くすことは出来ない。
結局この分野で働く人々の、ものの考え方に大きく左右されてこよう。
今日の不況下のインフレが、経済的には石油危機を背景とした点では疑う余地がないのだが、経済を動かす者は誰かというとほかならぬ人間である。したがって、人間自身が変わらない事には、インフレも、デフレもさけて通れない。ことに、資本主義、自由主義の社会にあっては、その振幅はまことに大きく揺れ動くことになるのである。
posted by ゆき at 14:47 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

1975年3月

これまでインフレ問題を通して、現実の経済社会の姿と、その歪について、簡単ではあるが見てきたので、こんどは少し角度をかえ、近代社会の思想的背景と現代経済社会の仕組みについて、概観してみることにしよう。
まず古代社会は、王が支配権を握っていた。メソポタミヤ文明、エジプト文明、エーゲ文明、ギリシヤ文明・・・・・・、そして、今世紀に入ってローマ帝国とつづく。
中世社会にはいると、王から神が支配権を持つに至る。この場合の神は、神の名を借りた絶対的権力である。
近代社会はどうかというと、産業革命、市民革命によって神から個人が支配者となる。自由、平等の名の下に、個人はようやく周囲の束縛から解放される。何をするのも自由であり、人は人、自分は自分である。現代はまさに、この自由主義、個人主義、民主主義の世である。
ここ四、五千年の人類の歩みは、大きく分けて以上の三段階に区分できるようである。
さてそこで、近代社会の考えは右に見るように、個人が支配権を握っている。つまり何をするのも個人の自由であり、個人を侵す者は、国家といえども、罪悪と見られている。
我が国の憲法は、いわゆる自由憲法ともいわれ、国民の権利義務については最大限、個人の自由を保証している。明治憲法と比べると、まるで月とスッポンほどの相違である。世界でもマレにみる自由憲法であり、国民にとって、ある意味では、これほど恵まれた国はないといえよう。
では、この自由思想の考え方は、どこにあるかというと、近代は信仰から悟性の解放をもって始まる、いわゆる、合理主義がその根底に流れている。
悟性とは一口にいうと、人間の感覚にもとづく概念の働きである。いうなれば思慮分別である。悟性の働きを基本として、神も国家も侵し得ない個人が確立する。すなわち、AはAであってBではない。BもまたBであってAではない。AはAであり、BはBであるというのが、その考え方だ。これをもっと平たく言うと、あなたはあなた、わたしはわたし。あなたが何をしようと、わたしの知った事ではない。これが今日の民主主義なのだ。しかし、Aが生きるためにはBとの関係がなければAは生きられないし、Bもまた生きて行くことができない。この思想が経済に向けられると、分業、交換が必要となり、市場が生まれてくる。市場は、価格で売買されるが、価格は需要と供給の関係で決まる。一方、人と人との間係は、契約によって結ばれ、利害が相反すれば、その契約はいつでも破棄される。この合理主義は、あらゆる面に顔を出しており、今日の民主主義の母胎を成している。
人間から思慮分別を抜きとったら気違いである。よくある盲信、狂信になってしまう。したがって思慮分別が悪いのではない。問題は、感覚から得た思慮分別だけが、人間だというところに問題がある。
思慮分別だけで、人生が思う通りに行った、という人がもしあったら、お目にかかりたい。思慮分別程、実は、当てに出来て、当てにできないものはないからである。
向こうから自動車が走って来た。危ないからさけようとする。ところが、その自動車はさけた方に突っ込んできて大怪我をした。
子供が高いところから誤って下に落ちた。大低なら即死のはずが、傷一つ負わずに済んだ、という例は枚挙にいとまがない。
このように、人間には悟性だけでは計れない作用が働いており、その作用は、それぞれの生活態度、とくに心の在り方によって、よくも悪くも働くのである。まず、このことを胸に収めて欲しい。
個人が支配者とは個人の自由をいっているわけだが、その自由が悟性によって人間関係まで延長すると、問題が出てくるのである。つまり、心と肉体はその機能するところは、心の在り方で大分ちがうということだ。
元来、自由であるものは各人の心しかない。肉体は不自由にできている。本当は肉体も自由になるのだが・・・・・・。肉体が不自由だという認識は、人間には心の自由があるので、それでわかるのだ。また、人間は自由だという考えも心が内在しているから、そう思うわけである。
例えば、どこどこへ行ってみたいと心は思う。すると心はもう既にそこへ飛んでいる。飛んでいないと思うのは、肉体があるからである。ところが、肉体をそこまで行かせるには、歩くか、電車や自動車、飛行機に乗らないと行けない。つまり、肉体を物理的にそこへ運ばないと、目的の場所に行けない。まことに不便なものである。
これに対し心はなんでも思えるし、創造も自由だ。心は、さまざまな夢を描き、その夢の中に、自分を置くことだってできる。このような能力は人間を置いてほかにない。
思うこと、念ずることが自由なので、人はさまざまなクセを持つことになる。これを業ともいうし、カルマとも言う。その業に自分が翻弄されてくると、何でも思える自由が、こんどは思えなくなってくる。つまり、ある小さな枠内でしか、ものが思えず、考えられず、次第に、いら立つようになってくる。心の中が悶々としてくると、ノイローゼ、精神病に発展してくる。
ものに執着すると心が小さくなり、執着から離れると大きくなる。思うことの一念の針を、自分本位に置くと、小さな自分になる。他を生かし、助け合う関係の中に自分を見出すと大きくなる。
このように自由とは、思うこと、念ずることの自由性にあるのだが、本来の意味はもっと次元が高いものなのだ。
思うこと、念ずることは、普通は肉体という五官(眼、耳、鼻、舌、身)を通して発展する。通常これを一○%の意識活動という。ところが、私たち人間は、肉体という五官を持つ以前に、個の魂として、次元のちがった世界で生活している。この時の自分は、この世の肉体はない。魂の自由性に、すぐさま対応できる光子体というボディーを持ち、どこへでも飛んで行ける。銀河系宇宙の地球以外の他の天体にも行けるし、素粒子の世界をも覗くことができる。これを三次元的(この世的)にいうと、私たちの心は、宇宙大の広がりを持っており、したがって、地球内の出来事、宇宙の生成が、手に取るように分かる、ということなのだ。この活動を、潜在された九○%の意識活動ともいう。
人の心――魂というものは、このように偉大であり、しかも大きく広い。
各人の心というものは神の精(エネルギー)を受け入れる器であるが、魂とは、そのエネルギーを消化している意識であり、個性である。
各人の心は神と直結してるので、大宇宙につながり、それはまた大宇宙だといえるのだ。
これを別な見方で説明すると、大宇宙の空間は、いつ果てるともないエネルギーが充満している各人の心であり、その空間に点在する地球を含めた星々が、個性ある魂、つまり現れの各人ということになるだろう。
身近な例で説明すると、三十七億の人類は現れの世界では別々な顔、形をしているが、心は一つに結ばれている、ということだ。
ここまでくれば、心と肉体の関係が、どういうものかおわかりだろう。
肉体の自由を求めて、各人が勝手な行動をとれば、一つに結ばれている心の機能が果たせなくなり、自由を求めていながら、いよいよ不自由(病気、災害・・・・・)になるということだ。
各人の心は自由であり、宇宙大であり、一つであるものが、五官による一○%の意識活動に翻弄され、肉体の自由を主張すると、この地上は混乱に輪をかけることになる。
今日の民主主義、自由主義の考えは、いわば理性というもう一人の人間と、悟性の人間が入り交ざっているのだ。
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1975年4月

(一九七五年四月)

神から離れた人間の主体性、そして、自由の主張、自由意思、自由な行動というものは一見、正当のようだが、正当ではないのだ。人間は神から離れようとしても離れることはできない。なんとなれば人間は神の子であり、神の庭で生活するものであるからだ。
現代人は神という言葉を非常に嫌う。また、神というと、いかにも、保守的な頑迷固ろうな人間が想像され、そういう言葉を吐くとさげすまれ、劣等感さえ感じさせてしまう。まことに困ったものである。
神という言葉にどれほど嫌悪感をいだこうとも、私達は神から離れることはできないのだ。神は、この大自然を創造され、私たちはその創造物の中で生かされているのだから、どんなに自己を主張しても、主張しきれるものではないからだ。ビルを建て、鉄道を敷き飛行機を空中に飛ばしたとしても、これらはすべて自然という神の体を借りて可能にしたものであり、自然から一歩も外にはみ出したものではない。大宇宙からみた人間の小さいことといったら、お話にならない。人間は肉体的自我を主張すればするほど小さくなる。何故なら、「もの」には限界があるからである。地球全体を自分のものにしたとしても、  太陽から見れば九の惑星の一つにしか過ぎない。地球の衛星の月まで独占してもまだ小さい。「もの」を独り占めしているうちに、肉体の方が老朽化してこよう。肉体の方はいつまでも生きつづけることは出来ない。彼の欲望の根底には、肉体や物がすべてであるのだから、肉体が滅びる死とともにすべてを失う事になる。これほど無意味な、これほど無価値な人生はないだろう。
悟性という言葉は神から独立した人間であり、主体性のある自由人を指しているが、感覚の人間、思慮分別の人間が、どうして悟性といわれるのだろう。悟性の意味合いからして、悟性は知性に繋がり、悟性は知性の働きであるとして、近代は知性を駆使した科学文明が発達する事になる。二十世紀の文明は、まさに科学の非常な躍進を遂げた人類史上、希にみる唯物思想中心の社会であり、自由を謳歌した物質文明の世紀といえるだろう。
悟りについてはいろいろな解釈があるが、悟りの最高の境地は神を知ることであり、神と人間が表裏をなしたことを意味する。つまり、感覚だけの人間が、内在する神性を認識することによって、神と一体となることである。ここに至って、人は、はじめて、主体性ある自分に復活し、神の自由性を発揮することが可能になる。悟性とは、本来、そうした意味だったのではないだろうか。
ところが、中世から近代にそうして近代社会の悟性の在り方をみると、神から独立した人間、神から拘束されない自由人、人間の知恵による科学文明へと発展する。歴史の進み具合から見て、また、今日知性派と自称する人々の行動をみても、神という言葉を嫌い、神から独立した人間こそが、人間らしい人間、ヒューマンな人間像としてとらえられている。人間は善と悪とがまざりあい、喜怒哀楽の人生こそが人間らしい生き方であり、そこには、親しみと、人間臭さ、人間としてのふくらみ、豊かさがあるとみられてきた。したがって、イエスやモーゼは人間ではなく、また、釈迦も神話の中の人間であり、人間が求める人間ではないとする。ひどいのになると、これらの人々は架空の人物であり、想像上の人物という者さえある始末である。
感覚や趣向、感情、そして、自分の知識の枠内でしかものを見ない、ものをとらえようとしない、また、そうしたクセや生き方を是認するのが、現代人の姿であり、今日いう悟性の人間なのであろう。悟性の人間は、自由があるようで自由が無い、主体性があるようで主体性がないのだ。
現に、悟性にもとづく資本主義社会は手詰りをきたしているではないか。個人の自由を解放しながら個人の自由はえられず、その自由を得るために、今日では徒党を組んで行動を起こすようになっている。何々組合、何々運動、何々団体・・・・・。世界を見ても、大きくは東西両陣営ブロックにわかれている。第三勢力として中国の出現、さらには西欧諸国にみられる経済ブロックの結束、石油産出国による団結、資源国同士の連盟というように、個人の自由は、利害が一致する者同士が手をとり合い、要求することによって、達成される、という風に変わってきている。
悟性は、感覚的な思慮分別にもとづくものだから、個人の自由、個人の主体性は当然、欲望の解放をもって、まず始まるだろう。欲望の最短距離にあるものは、ほかならぬ肉体の維持であり、生きることであり、生きるためには、経済的欲望がなによりもまして優先されなければならないだろう。
こうして近代社会は経済を主軸に、経済を中心に動かさるを得なくなっている。また、感覚的、肉体的自由、肉体的な主体性を持つ為には、経済的豊かさがなければならない。経済の豊かさが、悟性にもとづく自由を約束し、人権の確立、主体性が維持されることになる。
現代の資本主義、自由主義は、こうして、悟性の解放、欲望の解放をもって幕が開かれ、科学技術の進歩をうながしてきたのである。
しかし、前述のように、物には限界があり、物は有限であり、そうした中にあって、人々が、より経済的豊かさを求め、自由を求め、要求が激しくなってくると、利害の衝突が至るところでみられるようになる。一人の力より多数の力を結集するしか、個人の自由は期待できなくなってくる。
こうして、国内だけではなく、世界の至るところで、経済ブロックが形成され、一つのパイをめぐって、たがいに相手をけん制し、力で奪いあう、という形になってきているのである。
前月号でもふれたように、人間の自由性は各人の心にしかない。自由を求めて、肉体的自由、欲望の自由はいくら求めても得られるものではない。
また、自己の主体性を求めて心が外に志向すると、外界の動きに常に心が翻弄され、主体性の確立どころではなくなってくる。現代人をみれば、自分をふりかえれば、この点は一目瞭然である。
くりかえすようだが、人間の自由性は心の中にあって、その主体性も、心に内在されている。
しかし、この点について、人は疑問をいだくにちがいない。神が総てであるとすれば、人間が自分の神性を発見できたとしても、そこに、どうして人間の自由があるのか。
また、神がすべてであり、人間は神の子であるとすれば、人間の主体性は論理的にも、実際的にも確立できる道理がない。また、神のふところ深くはいっている人間には、自由も、主体性もあり得ないではないか、と反問されよう。
こうした反問は、知性による反問であり、心を知らないがために起こる疑問である。まさしく、世に言う悟性の働きしか、心が働いていない証拠だ。
神は法の中にあるのだ。したがって宇宙の秩序が神であり、実在の証である。
人間が神性の自分を発見したとき、つまり、神を見たとき、悟ったとき、人間は法と共に在ることを認識し、その法を行使することが可能になるのだ。
モーゼの現象、イエスの奇跡、そして、ブッダの偉大なる慈悲は、すべて、法の行使であった。
解脱とは、人間にまつわるさまざまな繋縛から遠離し、法とともに生き、法の行使者になったことを意味する。
だから、現実の物理現象を超えた現象、奇跡が行使できるのである。
人間は、ここに至って、初めて、真の自由人となり、真に主体性が確立されたことになるのである。
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